世話人久保善平先生講話(立教182年11月12日)
只今は結構に網走大教会の11月の月次祭に参拝させて頂きまして、誠にありがとうございました。常日頃は、お道の御用にお励み下さいまして、誠にご苦労さまでございます。本日はお時間を頂戴致しましたので、思います所をお話しさせて頂きます。どうかしばらくの間、よろしくお付合いを頂きたいと思います。只今は結構に網走大教会の11月の月次祭に参拝させて頂きまして、誠にありがとうございました。常日頃は、お道の御用にお励み下さいまして、誠にご苦労さまでございます。本日はお時間を頂戴致しましたので、思います所をお話しさせて頂きます。どうかしばらくの間、よろしくお付合いを頂きたいと思います。
私たちが信じて通るこの道は、親神様がいちれつの人間に陽気ぐらしをさせてやりたいとの親心から、教祖をやしろとしてこの世の表にお現れ下さり、そしておつけ下された道であります。お教え頂きます「陽気ぐらし世界の実現」というものは一朝一夕に叶うものではなく、長い長い道のりを代を重ねて歩んでいかねばならないのだと考えるのであります。私は、その時代その時代を生きるお互いが、教えて頂いたこの御教えを、自分の行動や自分の思案の基準に通ることが出来るように、日々心がけていくことがお望み下さいます陽気ぐらしに向かって歩みを進めていく上で、何より大切なことではないかと考えているのであります。周りがどうだから陽気になれない、周りがこうだから明るい心で通ることができない、というのではなく、まず自分がどうやって御教えに沿う心で通るのか、そこが重要だと思えてなりません。
中でも最近特に思いますのは、喜べない中から喜べることを探し、親神様の思召を求める通り方、たんのう、いんねんの自覚、ということの大切さであります。自分の心がどんな時でも陽気ぐらしに向かうことができるよう、あるいは常に親神様、教祖の方を向くことができるようにする為には、このことが本当に大事だと思えてならないのであります。そうした上から今日は特にたんのうということに重きを置いて話を進めさせてもらいたいと思います。
これは今年の春ごろの話です。私の知り合いで30才前後の若い人と話をしている時、彼が何かお道の話を聞いてきた後だったと思うのですけれども、たんのうという言葉について「先生、たんのうというのは単に何でも喜ばせてもらう、という意味だと思っていたんですけれども、実はそれだけの意味だけじゃなかったんですね。」というようなことを話してくれました。ちょっと感じる所がありましたので、後日、天理教校の専修科という所で、学生に教えを伝えている職員数名と話をしている時に、「君ら学生に、『先生、たんのうってなんですか?』って聞かれたらどう答える?」ということを訪ねてみたのであります。するとある者は、「喜べないことでも喜ぶことって言います。」と答えました。また別の者は、「私はこう説明します。例えば、10の物を望んだ時に、5だけしか得ることが出来なかった。その時に足りない5つを不足するのではなくて、5つあることを喜ぶことだと、そういうように説明をします。」と答えてくれました。私はそれを聞いて、「まぁ、そうかなぁ。」とは思いながらも、何か物足りないように思ったのであります。冗談でどちらの子にも「そら40点や、そら50点や。」というような点数を勝手に付けたのですけれども、その点数に深い意味はありませんでした。ただ、「その答えなら、お道の人でなくても答えられるな。何が足りないか考えてみたらどうや」ということを宿題にして与えたのであります。
たんのうという言葉は普通の日本語で、国語辞典を引くとその言葉が出てきます。ある辞書でたんのうという言葉を調べてみますと、まず一つ目の意味として「十分に満足すること」と書かれてありました。二つ目の意味として「気が済むこと、納得すること」ということが書かれてありました。先ほど述べました若い職員さんの説明は、私にはこの意味の域を出ていないように思えたのであります。お道でいいます所のたんのうという言葉は、教祖から教えて頂いた教え、教理の一環であります。ならばそのたんのうという言葉の説明には、親神様のお働き、あるいは親神様の思召、と言う言葉が出てこなかったら、何か不十分だと私はそう考えているのであります。その言葉が出てこないなら、その説明がなされないなら、それはただの毎日の心がけの話になってしまうのではないか。お道の教えを、未だ知らない人達に説明をする際に、わざと意識をして親神様のお働きや思召に触れない説明の仕方をすることがあるかもしれません。時にはそうした説明をした方が相手の方に理解してもらいやすい、ということもあるような気もするのであります。しかしながら、それがいつもいつもそういう説明をしておりますと、そうした説明の仕方が当たり前になってしまい、説明する側の者がお道の言葉本来の意味を忘れてしまったり、あるいは長い間それを繰り返すことによって思い違いをすることになってしまう恐れがあるんじゃないかな、と心配をするのであります。
例えばいつの間にか、ひのきしんという言葉とボランティアという言葉が同じ意味のように勘違いをして思い込んでしまったり、というように。教えを知らない人に理解をしてもらう、ということを意識しすぎるがあまり、いつの間にか本来の意味合いを見失うことになってしまってはいけないのではないかと考えるのであります。
さて、たんのうということに話を戻します。たんのうというお道の言葉の説明に、親神様の話を加えるなら、いったいどういうことになるのか。これは天理教教典を参考にするのが一番だと思います。教典ではたんのうについては、第8章みちすがらの中で、次のように述べられています。
人の心は常に変りやすい。朝の心は必ずしも夕の心ではない、とかく、身近に起る事柄に心を動かされて、朝に明るい心も、夕には暗くなりがちである。一度は、教に感激して信仰に志しても、やがて喜び勇めなくなることもあれば、折角、たすけて頂いても、又も、身上のさわりや事情のもつれで、心が動揺する時もある。この中にあつて、常に己が心を省みて、いかなることも親神の思わくと悟り、心を倒さずに、喜び勇んで明るく生活すのが、道の子の歩みである。この心の治め方をたんのうと教えられる。
私たち人間の心というものは、大変移ろいやすいものであり、その日の朝には大変機嫌が良くても、夜になったら機嫌が悪くなっているということは、往々にしてあるものだ。それどころか、もっと短い時間で気分が変わることもある。5分前まで機嫌が良かったのに5分したら機嫌が悪くなる。この家に訪ねて来てくれた時には機嫌が良かったのに、途中で機嫌が悪くなるというようなことは、私たちの暮らしの中でもしょっちゅうあることのように思うのであります。
この教えと出合い、この道を勇んで通らせてもらうんだ、といくら熱心に信仰していても、毎日の暮らしの中では嫌な事に出合うことも当然あるのであり、そうした時に少しも喜べなくなってしまうということもあれば、身上や事情に出合うことで心が乱れてしまうということもあるのであります。そうしたいろんな道中にあっても、身の周りに現れて来ることは、全て親神様が自分にお見せ下さっていることなんだと悟り、心を倒すことの無いように、喜び勇んで暮らしていく。この心の治め方がたんのうだと思うのであります。ただ単に喜べない事を喜ぶということだけを意味しているのではなく、喜べる事も喜べない事も、全ては親神様が私の為に、自分の為に見せて下さっている事だと心を治める、これがたんのうということだと考えるのであります。
それでは自分の身の周りに現れて来ることが、親神様の思召なんだと悟ることが出来れば、常に心を倒すことなく、喜び勇むことが出来るのでしょうか。自分にとって嫌な事が、辛い事が現れて来た時に、これは親神様が見せて下さったんだから仕方がないんだ、と諦め半分で受け止めても、それは必ずしも勇めているとは言えないでしょう。親神様の思惑とはどういうもので、私達がそれをどのように受け止めれば、勇み、喜びに繫がっていくのでありましょうか。
明治21年6月のおさしづに次のような一節がございます。
難儀さそ、不自由さそという親は無い。幾名何人ありても、救けたいとの一条である。その中隔てにゃならん、隔てられんやならん、という処、世上見て一つの思案。この理を聞き分け。
親神様は私達人間の親であらせられます。その親神様の思いは、子供である私達人間をとにかく救けたい一心であるとお教え頂きます。親神様の子供である人間が、どれだけ沢山いても、その内のあの子はたすけてやりたい、この子はたすけてやりたい、でも他の子はどうでもいいというのではなく、親の思いは子供皆を、とにかくたすけてやりたい一条なんだ。そこに子供を難儀させよう、不自由させようという思いは一つも無いんだ、とお教え頂いているのだと理解を致します。
そうした親心でいて下さる親神様が、この者にはこう、あの者にはこうと、人によって違った形、異なった姿で色々な事柄をお見せ下さる。そこには一体どういう思いが込められているのか。そのことをよく思案しなければいけないぞ、ということをお教え頂いていると思うのであります。
おふでさきでは
月日にハせかいぢうゝハみなわが子 たすけたいとの心ばかりで 八―4
とのよふな事をするのも月日には たすけたいとの一ちよはかりで 十二―78
とお教え下さっています。親神様は我が子である私達人間を、可愛く、ひたすらたすけてやりたいと思って下さっているのであります。人間の親と子の関係を考えてみても、親というものは自分の子供を何とか幸せにしてやりたい、何とか一人前にしてやりたい、守ってやりたい、たすけてやりたい等々、子供の事になると皆必死に思うものだと考えます。その思いの表現の仕方は人によって、優しい人もあれば、厳しい人もあり、時には無関心を装う人も居られるかもしれません。その表し方、表れ方は様々でありましょうが、一様に親というものは我が子の事を思っているということには何ら変わりがないと思います。それと同じように、親神様・教祖は、常に我が子である私たちのことを考えて下さっているのだと、そう信じるのであります。時には厳しい時もあるでしょう。時には優しい時もあるでしょう。でもいつでも私たちを立派に育てようと思って、いろんなことをお見せ下さっているのであります。嬉しいことを見せて下さる時は、手放しで褒めて下さっているのかもしれません。厳しいことをお見せ下さる時は、ここで厳しく注意をしないと危ないと思って下さっているのかもしれません。
神様なのに人間を辛い目に遭わせるのか、というようなことを言われることもありますけれども、よくよく考えてみてもらいたいのであります。親というものは子供のためを思うならば、時には言いたくない事も言わねばならんことがあるのであります。時には厳しいことも言わねばならん時があるのであります。それだけではありません。例えば、子供が道端で遊んでいて、近づいて来る自転車や車にまだ気が付いていない、このままじゃ危ないと思えば、その子供が痛がろうが倒れようが、手を引っ張って、コケてでもたすけようとするのが親だと思うんです。それと同じように、親神様も私達人間がこのまま何も気が付かずにそのまま進んで行ったら、これは本当に危ないことになると思えば、危ないことになるのにこの子は何にも気づいていないと思えば、少々痛みを伴わせてでもたすけようとして下さっているのではないでしょうか。
子供である私たちお互いは、一人一人別の人間でありますから、当然危ないことに出合うタイミングが異なることもあるでしょうし、言うことを聞きやすい、効果的な注意の仕方というものも、人によって違うこともあるのであります。ですから親神様は、そこをよく見極めて、その子供にふさわしい形でお見せ下さる。その子に出来るだけ分かる形で、気づきやすい形でお見せ下さるんだと思うんです。だから我々からすれば、自分だけが何でこんなことを見せられなきゃならんのか、と思うようなことにぶつかっても、実はそこに、そういう思いが潜んでいるんじゃないかと考えるのであります。そうしたことに気が付けば、何が起こっても、何に出合っても心配はいらないと思います。嬉しいことを嬉しく思う、これは比較的出来やすいことであります。でも、辛いことや厳しいことを喜ぶことは難しいのであります。しかしながらその奥には、このままいったらもっと大変なことになる、そこからなんとか私たちをたすけてやりたいという、温かい親神様・教祖の親心が溢れているのだ、ということに思いが至れば、私はきっとそこに喜びを見つけることが、喜びを感じることができるのじゃないかと思います。危ないと、手を引っ張られてコケた子供が、最初は痛いと思っても、後になってから、あの時に手を引っ張ってくれたからたすかったんだ、あれで良かったんだと感じることができるように、喜べる日が来るんじゃないかと思うのであります。
お道を信仰していれば、辛いことや苦しいことに出合わずに済むのか、といえば、決してそんなことはないように思います。これまでの人生で積んできたほこりの心遣い、自分自身が持って生まれた癖・性分。前生や前々生など、長い間に積んできたいんねんというものが誰にでもあるのであります。ちょっと雑な言い方になるかもしれませんけれども、これまでに積んできた悪いことが積り重なり、今この時にこの子に見せておかなかったら、この子のためにはならない、今改めさせておかなければとんでもないことになるという時には、親神様は必ずお見せ下さると思います。
別席のお話に、何程通ろうまいと思うても、通りただけは自然に通らねばならん、また、通さねばならん。という一節がございます。私たちがどんなに熱心に信仰していていても、お互い九億九万年前から積んできたいんねんというものがあるのでありますから、自分では覚えていない、気が付いていないこともたくさんしてきたに違いありません。その結果として、今通らなければならない道は必ず通らなければならいように導いて下さるのであります。何かの節に出合った時、これはこれからの私の為にお見せ下さったことなんだ、今気付かせてくれることはありがたいことなんだ、あるいは、これは今私が通らなければならない道なんだというように悟って通ることができるのが私たちお道を信仰している者の強みだと思います。親神様が私たちのことを思って見せて下さっていることでありますから、なんでこんなことに、と落ち込む必要はありません。たとえ一度はそう思ったとしても、何か思召があるに違いないと気を取り直し、歩みを進め直すことが大切だと思います。何が起こっても何に出合っても、こうした思いで心を治めること、思召を求めること、つまり自分にとって必要だから親神様が見せて下さったんだ、だからこれで結構なんだ、だからこれでありがたいんだ、だからこれで十分なんだと心を治めることがたんのうであり、そのたんのうの心を治めることで親神様が、そうかよくわかってくれたな、と喜んで下さり、いんねんを一つ一つ納消して下さるのではないかと考えるのであります。教典の中で、
親神の胸に抱かれ、ひたむきに信仰に進むものは、我が身にふりかかるいかなる悩みや苦しみにも、溺れてしまうことなく、むしろ素直に成つて来る理を見つめて通るから、悩みや苦しみも、かえつて喜びに転じてくる。かくて、真にたんのうの心が治れば、前生のいんねんは納消される。これを、「たんのうは前生いんねんのさんげ」と諭される。とお示し下さっているのはこういう意味ではないかと思うのであります。
とは申しましても、喜べないことを喜ぶこと、全ては親神様が自分のために見せて下さっていることだと、たんのうの心を治めることはなかなか容易なことではありません。嫌なことに出合った時に、すぐにたんのうができればこれほど楽なことはないのであります。たんのうとはこういうことだと知っていても、なかなかできないのがたんのうだと思うのです。喜べないことを喜ぶには、たんのうの心を治めるには、時間がかかると思うんです。たんのうする為にはまず、何とか喜ぼう、何とかたんのうさせてもらおうという、自分がしなければならない努力というものが必ず求められると思います。そしてその求める努力をしていく中では、自らのこれまでの行いを振り返り、いんねんの自覚というものを行っていく努力が欠かせないことになってまいります。教典では、
たんのうは、単なるあきらめでもなければ、又、辛抱でもない。日々、いかなる事が起ろうとも、その中に親心を悟つて、益々心をひきしめつつ喜び勇むことである。かくて、身上のさわりも事情のもつれも、己が心の糧となり、これが節となつて、信仰は一段と進む。これを、「節から芽が出る」と諭される。
と記されています。
たんのうの心を治めるということは、決してこれで仕方がないんだという、諦めの心ではありません。またこれで我慢しなければならないという辛抱でもないのであります。成ってくる姿に、親神様の思召を求め、喜びを探す心がけであります。そのためにはそれ相応の時間がかかってもいいのではないでしょうか。嫌なことや辛いことに出合った時、最初は腹を立てても、最初は納得できなくても、あるいはこれで仕方がないのかなと諦めても、我慢や辛抱という気持ちで通っても、どこかに必ず親神様の思召があるはずだと、なんとかそれを見つけよう、親心を悟ってたんのうの心を治めようという努力をし続けることが大切であり、それこそがたんのうの心が治まり、節から目が出る御守護を頂戴することに繋がっていくということではないでしょうか。大事なことは、節から芽が出る御守護を頂戴しようと思えば、たんのうの心を治める努力を続けなければならない、ということだと思うのであります。
三代真柱様のお話の中で次のようなものがございます。少し紹介をさせてもらいます。
たんのうということは、辛抱することではありません。教理の上から思案するならば、たんのうと辛抱とは訳が違うのであります。~中略~ しかし、たんのうということは、口で言うことは簡単であっても、なかなか難しいのであります。~中略~ たんのうというものは痩せ我慢をし、歯を食い縛るその先に味わうことの出来る喜びではないかということを考えると、歯を食い縛って頑張るということもあっていいのではないかと、痩せ我慢を張って泣きながら通るということも私は悪いことじゃないと思う。しかし、それで終わることなく、その先にある、たんのうを、やはりしっかり見つめながら、その喜びを心に勝ち取るように努力をさせてもらうということが大切である。~中略~ 絶対間違いのない真実の教えを心に治め、どんな時でも喜べることが誠真実であり、私はそれがたんのうだと思う。しかも、たんのうするには人の助力は要りません。自分さえその気になったらそれなりに出来るのであります。
私はこのお話が非常に好きなんです。たんのうという言葉の意味合い、またその心を治める通り方を実際に私たちが生きる毎日に照らし合わせて、大変分かりやすく教えて下さっているように思えるんです。しかも、このお話の続きには、
人が喜べないことでも、それを喜ばしてもらうように努力をするということが、この教えの真髄
ともお話し下さっておりますし、さらには、
まあ、たんのうさえできるならば、教祖のひながたの半分は生かされたといっても過言ではないんじゃないでしょうか。
ともお話し下さっています。本当に道を通るお互いにとっては、力強いお言葉だと感じているのであります。
たんのうというのは、この教えを信じて通る私たちお互いにとって、親神様の思召を求め、自らの心を練り正していく、本当に大切な心の治め方であり、ただ単に何でも喜んで通ろう、喜べないことも喜ぼう、というだけの話ではないように思うのであります。
教祖が教えて下さった親神様の御教えは、当然のことでありますけれども、親神様の思召や、お働き抜きに説明することはできません。そのことをしっかりとわきまえて、場合によっては一般的なことになぞらえて説明をすることもあるかと思いますけれども、本来の意味合いを忘れることのないように、取り違えてしまうことのないように、お互い気をつけて通らせてもらいたいと思うのであります。分かりやすい説明を求めるがあまり、本来の意味を変えてしまっては何にもならないと思うのであります。
少し話は変わりますけれども、私はこれから先この道を通ってくれる若い人たちに対して、しっかりと教えを伝えていくということはどうでも必要なことだと感じています。教祖が教えて下さった親神様の御教え、この教えの中身は時が流れても決して変わることがない、不変であると信じています。とは申しましても、時が経ち時代が流れますと、教えの中身が変わらなくても、教えを聞く側、私たち人間の側の常識に変化が現れてまいります。昔の人なら分かったはずの言葉が分からなくなったり、理解できた感覚が理解できなかったり、ということが年々増えてきているようにも思います。そこで、分かりやすくしようとするがあまり、教えの中身が変わってしまったり、教えの厚みが薄くなってしまったり、ということになってはいけないように思うんです。そうならないように、教えを人に伝える側の私たちがしっかり気をつけるということは、もちろん大事なことではあります。と共に、これから道を通っていってくれる若い人たちに、しっかりと教えを学ぶ機会を与えるということも必要なことだと思えてなりません。この教えをまとまった期間しっかりと学ぶということがこれから先の道にとって本当に大事なこと、必要なことになってくると考えます。そのためには、おぢばにあります学校をしっかり活用をして頂きたい。中でも、高校や大学を出てから、お道のことを専門に学ぶ、天理教校の専修科や、本科実践課程、研究課程というところを上手に活用して頂きたいと思うのであります。将来この道を担う若い人たちが、高校や大学を卒業した後、親里おぢばで、修養科の3ヶ月を超えるような期間、お道のことを専門に集中して学ぶことができる場所は、天理教校専修科や本科実践課程、本科研究課程という所しかないのが現状であります。専修科、これは詰所で住み込みながら、主に高校を出た者が教えを学び伏せ込みに励む所であります。また、本科実践課程は、全員が寮に入ります。これは専修科や4年制の大学を出た者が、教えを学ぶと共に、布教する、実際にお道を通る力を身に付けるというところに重きを置いた所であります。また、4年制の大学を出た者がとにかく教えを深く学ぶ、勉強をする、本科研究課程という所があります。いずれも2年制なんですけれども、こうしたところで学ぶ若者が、ここ数年の傾向を見ておりますと、横ばいと申しますか、右下がりといいますか。減っている、増えていないという傾向にあります。お道のことを専門に学べるところで学ぶ若い人たちが減っていくということは、私は将来を考えると、大変気になるのであります。高校を卒業したら大学などに進学する。そこを卒業したら何かしらの職に就くということが当たり前になってきている時代のようにも思います。もちろん大学などに進学する方が、一旦職に付く方が、その子が将来道を通る上において為になるということもあるでありましょう。しかし、この子には早いうちから道を通らせた方がいい、若いうちに教えを勉強したり伏せ込みをさせた方がこの子の為になるんだという場合もあると思います。是非とも将来の為に、今のうちに道の勉強をさせた方がいいということだってあるでありましょう。本人が通りたい道を通らせるということもあるのかもしれませんけれども、それだけではなく、親や教会の会長さんが、その子の将来を思って、通ってもらいたい道を勧めるということも、私は大切なことだと思います。これから道を通る若い人が、そうした場所で、お道のことをしっかり学ぶということは、本人にとって必ずプラスになると思います。
今、こうした時代だからこそ、若い人が若いうちに親里で教えをしっかり学び、身に付ける時間を持つということが、より大切になっていくように思います。それがなければ、学ぶ時間が十分にないままに、学ぶ量が十分でないままに年齢を重ねてしまう、そうしたことが積み重なりますと、人様に伝える教えの中身が知らず知らずのうちに薄くなってしまう恐れさえあるように思うのであります。
先ほど述べた、専修科や本科で学ぶ学生が今以上に増え、学んだ後で各地に戻って頑張って道を通ってくれたら、本当に心強いことになっていくと思うのであります。
私たちお互いが教祖の親心にお応えできるように、少しでもお喜び頂けるようにそれぞれの持ち場立場でつとめさせて頂くことはもちろん大事でありますけれども、同時に若い人たちの育成にも力を注ぎ、これを我がこととして考えていかねばならないと思います。自分たちの後に続く人材の育成に、今以上に心を傾けて頂きたいと考えるのであります。
私たちが育てよう、導こうとしている若い人たちは、10年後、20年後、30年後にこの道を通ってくれる人材だと思います。今私たちが、毎日毎日一生懸命通らなければ、教祖が教えて下さったこの道が、彼らの時代に続かなくなってしまうのと同様に、今私たちが彼らを育て導くことに力を注がなければ、いくら我々が頑張っても今度は道の将来を背負う人材がいなくなってしまう、ということになりかねません。そうなってしまっては、教祖に残念をおかけしてしまうことになってしまうんじゃないか、そう考えるのであります。
次の時代を担う信仰者を育てていくということは、末代かけて陽気ぐらしに向かって歩みを進めていく為の、必須条件だと思います。一人でも多くの若者が、おぢばでしっかり教えを学んで、教えを身につけて、そして自分の持ち場立場で道を通ってくれることができるように、お互いに声を掛けさせて頂きたいと思うのであります。おぢばがこうした若者で賑やかになるということは、この道が活気づくことに繋がっていくと私は信じているのであります。
最初の話に戻ります。最初に申しましたように、親神様がお望み下さいます陽気ぐらしの世界を実現するということは、並大抵なことではありません。どれだけ私たち一人ひとりがそうなりたい、陽気ぐらしが実現したらいいなと思っても、陽気なことばかりに出合う毎日にはなかなかならないのであります。一見陽気に受け止められない出来事に出合った時、我々はお道の人間でありながら、お道の教えを知っていながら、ついついその出来事を人のせいにしたり、周りのせいにしたり、あるいは社会のせいにしたり、自分以外のせいにばっかりしてることはないでありましょうか。自分が陽気になれないのはあんたのせいだ、あの人のせいだ、この社会のせいだ、とばかり言うだけで、果たして明るい陽気な心が生まれてくるでありましょうか。喜べないことに出合った時、これは親神様が何かを教えて下さるために、私に見せて下さっていることに違いない、という考え方が常にできるように、お互い努力をさせて頂きたいのであります。親神様の思惑があってお見せ頂くことである以上、それを誰かのせいにして、自分の心や自分の行いを振り返ることから目を背けても、意味がないように思います。どんなことに出合っても、たんのうの心を治めることができるよう、親の思召を求めて自らの心を振り返る、自らの行いを振り返る。そうしたことが私たちの習慣になれば、腹立ち、イライラ、ギスギス、そうしたことは随分減っていくように思います。
陽気ぐらしの実現を目指すには、自らが陽気ぐらしを心がける姿勢を周りに移していくことが大切であります。あの人は、口では良いことを言っているけれど、日頃の態度は全然違うんだということでは、周りに何も映らないでありましょう。陽気ぐらしへの歩みを進めるためには、自分が親神様の思召を求めて通る、自分が教祖のひながたを心に持ち続ける、そうした努力を日々続けるということがやっぱり一番大切なことだと思うのであります。どうかそうした通り方、毎日の過ごし方ができるお互いになることができるように、共々に努力をさせて頂きたいということをお願いを申しまして、今日の私の話とさせて頂きたいと思います。
ご清聴頂きましてありがとうございました。