大教会長様講話(立教183年1月12日)

 本日は、肝心要の教祖五十年のひながたについてお話をさせて頂きます。教祖五十年のひながたを大きく分けますと、前半の欲を捨て切る、そして後半のおつとめを急き込まれる、という2つに分けられます。本日は欲を捨て切るという前半の部分をお話させて頂きます。ひながたに対しては、時代が違うので現代の世の中では、教祖の通り方をするのは不可能であるから、自分はひながたを辿る事は無理だというふうに思っている人もおられるでしょうし、又ひながたは昔話を聞いているという感覚の人もいるのではないでしょうか。

 まず教祖が天保九年十月二十六日、親神様が入り込まれ、神様になられてから何をされたか。突然この教えを広めるため、布教を始められたのではないのです。まずは欲を捨て、貧に落ち切るというところから始められたわけであります。明治22年11月7日のおさしづに、

 難しい事は言わん。難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。皆一つ〱のひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。

とありますように、親神様は難しい事も言わない、難しい事をしろとも言わない、全く形の無い所からしろとも言ってないのであります。我々が生活する上で、病難や災難に遭った時でも、一つ一つ様々な事に対応できるようにお通り下されたのが、ひながたなのです。ですから、ひながたの道を通れないということでは、どうもならないと仰られているわけであります。

 ひながたとは何か、それは人生のどんな苦しい辛い局面になっても、陽気ぐらしの道を歩めるよう、只々子供可愛いという思いで、教祖が自ら難儀の中を通って、お手本を見せて下さったのです。ただ昔の古い話としてとるのではなく、私達自身の生き方の手本になるようにさせて頂くことが大切なのです。

 まず一つ目、貧に落ち切るであります。先程ひながたの前半は、欲を捨て切るという話をさせて頂きましたが、何故教祖が真っ先に貧のどん底へ落ち切る道を急がれたのか、それは親神様が「貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。」こう仰せられたからであります。ですので、ひながたを学ばせて頂く基本姿勢として、ひながたの中の出来事やお言葉は全て、現代の我々に対して投げかけられていると受け取る事が肝心なのです。

 貧に落ち切る手法として、まず施しをされたわけであります。中山家が貧に落ちていく十数年の過程で、まずされたのは施しであります。貧に落ち切れとの親神様の思いのまま、嫁入りの時の荷物を始め、食べ物・着物・金銭に至るまで、次々と困っている人に施しを続けられ、遂に中山家の蔵は空になってしまいました。そして教祖は「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である。」と仰せられ、親が子供を思うのと同じように、困っている人達を救けずにはいられないという思いで、どれだけ自分の家が貧のどん底に落ち切っても、施しを貫かれるのでした。施しの例として、食べる米の無い日を過ごされる中、やっと手に入れた米でも、困っている人がいれば、それを惜しげもなく施される。寒さで震えている者があれば、自分の半纏を脱いで施す。これは教祖はもう食べる物・着る物が無いという状況でした。教祖は余った物を施しておられたのではないのです。教祖伝には「物を施して執着を去れば、心に明るさが生れ、心に明るさが生れると、自ら陽気ぐらしへの道が開ける、と教えられた。」と書いてあるように、欲を忘れることで喜びが生まれることを、自ら通って教えようとされたのです。我々の現代の生活に置き換えると、世の中の幸福の条件はお金がある事、健康である事、物がある事などが大きな条件になりますが、教祖が我々に教えて下さった事は、全く逆なのであります。欲を捨てるところに喜びが生まれると教えて下さいました。例えば一万円欲しい人が二万円貰ったら喜びが倍になりますが、五千円しか貰えなければ喜びは半分になり、不足が湧いてくるのです。ですから求める心には不足が付き、求めない心こそ不足が起きないのです。だから欲を捨てなさいと教祖は仰られたのです。必要以上に物を持てば持つ程、欲のほこりが増え、心に明るさが無くなり、執着が出れば出る程、不足が多くなり、その分ほこりが溜まってくると悟ることが出来るのです。

 続いて、家形・高塀の取り払い、そして夫善兵衞様の苦悩であります。ある日教祖は「この家形取り払え」と言われました。家形とは、住居や屋敷のことで、もちろん善兵衞様は承知をしないでおりますと、教祖は二十日間も食事をとらず寝込んでしまわれました。それから南東から瓦を下ろせと言われ、仕方なく下ろすと、教祖の身上は忽ち良くなり、少し経つとまた身上が悪くなる。今度は北東の瓦を下ろせと言われ、親戚の強い反対はあったが止むを得ず下ろすと、教祖の身上はすぐに良くなる。更には日が経ったある日、今度は家の髙塀を取り払えと仰せられたが、この髙塀とは家の周りにある塀ではなく、屋根の高い所にある、家の格式を表すシンボルなので、親戚や周りの人達は猛反対をしたわけであります。しかし善兵衞様は、教祖が苦しまれるのを見ているのが余りにも辛いあまり、髙塀を取り払ってしまいました。そして遂にこの事を機に、親戚一同不付き合いとなったわけであります。こんな事が続いたので、善兵衞様はある夜には教祖に「憑きものならば退いてくれ」と刀をかざして、涙ながらに枕元に立った事さえありました。こうした中、教祖も、夫が苦しんでいる姿を見て辛くなり、いっそのこと自分さえ居なくなればと思い、近くの池や井戸に身を投げようとしますが、その度に親神様に「短気を出すやない」と止められたのであります。

 こうした中、親様も夫が苦しんでいる姿を見て辛くなり、一層のこと自分さえいなくなればと思い、近くの池や井戸に身を投げようとしますが、その度に親神様に短気を出すやないと止められたのであります。しかし、このことさえもよくよく考えますと、一見、善兵衞様と親様の夫婦間の感情の中で、起きた出来事の様に思われますが、実はこのひな形を通し、神一条の道を求めて歩む時には必ず突き当たる葛藤や板挟みの苦しみの道を自らが通り、のちのちの我々が信仰を通る上での参考として示して下されたのです。そして、もう一つ、現代の我々が参考にさせて頂きたいのは、善兵衞様の御態度であります。近辺の家々はおろか、親戚一同まで不付合いになっても親様をとられたわけであります。親様が神様なので言う事にしたがったという事もあるかもしれませんが、善兵衞様はいざなぎの命の魂を御持ちであると同時に、底なしの愛情を持って親様とお子様を守り抜いてこられたのだなと感じさせて頂くのです。特に親様を守り抜いて来られたのではないでしょうか。余談ではありますが親様をなぜここまで守り抜いたか。親様は神様になる41歳以前から、善兵衞様の両親に真心を持って尽くし、深い愛情を持って子育てをし、泥棒に入られても許してあげ、自分に毒を盛られても許すなど、中山家の為に精一杯働いてくれた事、そして一番はやはり夫である善兵衞様に尽くしぬいた事ではないでしょうか。ですから、親戚一同不付合いになっても、親様を守り抜いたのだと悟らせて頂くのです。話を戻しますが、このことから我々も親様より教えて下さいました信仰を歩んで行く上で、世間に流され世間一般の目を気にしてついつい世の中ではこうだから、一般ではこうだからとそちらに重きを置いてしまいがちですが、周りの目は一切気にせず、親神様の思いを第一に家内や子どもは守り抜く愛情と、神一条の信仰心をこのひながたを通し勉強させて頂けるのです。更にはこの一連のひながたを考えても、次から次へと節を見せて頂きますが、我々生きていてもなんで自分だけこんなに次々と災難や病難を見せられるのだろう、と言う時もあるかも知れません。そんな時にふと死んでしまいたいと言う時もあるかもしれない。しかし、短気を出すやない、とのお言葉を受け、思いを留められた親様のその後の道すがらと、お道の発展していく状況を見る時、どんなことが起きてもいそいそとお通り下された姿は、まさに心に明るさと勇みを持つことができるのです。そして、善兵衞様のお出直しとこかん様の大阪布教であります。嘉永6年2月22日、善兵衞様は66歳で出直されました。教祖殿には人一倍愛情も細やかに親子夫婦の仲睦まじく暮らしてきた一家の大黒柱、善兵衞の出直しにあい家族の悲嘆は一入に深いものがあったと書かれています様に、今まで親様とお子様を一人で守り抜いてこられた一家の大黒柱を失った家族の悲しみは大変なものがあったわけであります。そんな大節の中、親様は17歳になったこかん様へ、大阪の街へと神名流しに出かける様に仰せられました。こかん様にすればお父さんの出直しと言う寂しさや悲しさの中での神名流しに出かけなさいとの親神様のお言葉であります。普通でしたら親が出直したなら、少しは喪に服したいとか、これから生活はどうしようかとか、この先誰が守ってくれるんだろうなど、様々な不安で一杯になるところですが、こういう大節こそ嘆き悲しんでいるよりも、積極的に足を一歩踏み出して親神様の御用に勇ませて頂く事で、人生は広げてくると節に対してどう対処するかを教えて下さっているのです。事実、このこかん様が神名流しで通られた道になる河内や大阪からいち早く天理教が伸び広がっている事を考えると、神名流しはその理の伏せこみになったわけであります。続いては、母屋のとりこぼちであります。善兵衞様が出直しこかん様が布教に出た年、今度は中山家の母屋を買い取る人が見つかります。いよいよ解体することになるわけでありますけれども、立て続けに来る様々な節であります。中山家は財産・持ち物・高塀・母屋など、全てを親神様の思いのまま全て取り払い、いよいよ人間の屋敷から神の屋敷へと建て替えるための準備にかかられたのですが、家の解体とは新しい家に建て替えるとか、違う場所に新築したので古い家を壊すといったことが一般的です。しかし、このひながたの場合は、まさに今住んでいる所を次に新築の予定の無いまま壊してしまわれたのです。それどころか親様は、これから世界のふしんにかかる。祝うて下され、と言われ、解体に来た人達に酒と肴を振る舞われました。このひながたから学べることは、教会の普請など何か形の普請をするのはプラスとするならば、解体はマイナスの普請になります。しかし、このマイナスの普請が大きければ大きいほど、大きく御守護を頂けると悟れるのです。このマイナスの普請とは所謂心の普請であります。歴代真柱様を初め先人・先輩先生より聞かせて頂く、形の普請に勝る心の普請とはこのことを仰せられているのです。そして、この5年後に、天理教が始まってから初めての勤め場所の普請が始まるのです。この普請から始まり現在のおぢばは、先人・先輩先生の心の普請のおかげで神殿を初め、教祖殿やあちこちに建つやかた、またおぢばに行って寝泊りする詰所、今住まわせて頂いている大教会など、初代の先生達の時代では想像出来ない程のありがたい姿を見せさせて頂いております。そして親様は梅谷四朗兵衛さんに、流れる水も同じ事、低いところへ落ち込め落ち込め、表門構え・玄関造りでは助けられん。貧乏せへ貧乏せへ、とのお話も残されております。さらに、母屋の取り壊しに続いて次の年には中山家にあった90坪あまりの田地を全て質に入れてしまいました。これで庄屋まで勤めた中山家の財産はついにお屋敷の土地建物以外いったん全て無くなった訳であります。親様は親神様の仰せのまま、約15年をかけて貧のどん底へと向かって行かれました。次はあたへを喜ぶであります。天理教が始まってからの15年は先ほど話した内容ですが、これから先の15年から20年・25年の間は、まさに貧のどん底と言える容易ならぬ日々を親様はお子様を含め、共に通られました。そのひながたの中でも、明日食べるお米がなくなり、こかん様が教祖に「お母さん、もうお米はありません」というほどの状況の中、教祖は「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて、苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」などのひながたや、また、「どれくらいつまらんとてもつまらんと言うな、乞食はささぬ」と、子供たちを励まされ、子供たちも品のどん底で崩れ落ちそうな心を奮い立たせ、教祖に付いていったのでした。

 先程は、貧乏せえ貧乏せえとのお話がありましたが、教祖は決して乞食はささぬと、頼もしいお言葉も仰って下さいました。実際、教祖やご家族は二十五年以上続くこの大変苦しい中でも、物乞いはただの一度もされてないのであります。そして、教祖はこのことを通して現代の我々に、どれほど食べ物があっても、一度病気にでもなれば食べるに食べられず、水一口さえも飲めなくなる。そう思うと我々は、水を味わって飲むこともできるし、こうして元気でいられることは大変ありがたいことなので、この親神様からお借りしている素晴らしい身体があるということを喜ばせて頂こうと教えて下されているのです。

 また、どんなに今が困難で先の不安を感じていても、その不満を口に出してはいけない、不足や不満を口にしてしまうと、結果全てが切れてしまうとお教え下さいました。とにかく親神様への感謝と喜びの心を忘れずに、神一条におもたれしていれば、必ず親神様が結構に連れて通って下さるので、それを楽しみに通らせて頂こうと諭されているのであります。

 このような中、貧に落ちきる道を二十数年間に渡ってお通り下された後、やっとお米を4合持ってお礼に来る人も出てきました。今私は二十年と簡単に申し上げましたが、二十年以上であります。教祖は、現代に生きる我々が苦しみ悩んだとき、どんなことでも乗り切れるようひながたとしてありとあらゆる道を通って下さったのです。それから、をびや許しがきっかけとなり、目の見えない人がパッと目が開く。気の狂った人もスパッと正気になるといったことが起こり、教祖に助けを求めてお屋敷へやってくる人たちが次々と訪れるようになったわけでありますが、教祖は、お屋敷へ来るものもそうですが、重病人がいるといつもいそいそと快くお出かけになられました。教祖はどのようにしておたすけし、信仰の道へと導かれたのか。多くの人は、医者に匙を投げられ拝み祈祷をしてご利益を願ったが、一向によくならず、八方塞がりのところをお屋敷を尋ね、教祖にたすけて頂いたわけであります。そして、教祖はいつも、「待っていた、待っていた」と仰せられて、暖かく迎えられておたすけをされ、そうして助けて頂いた者は、何か恩返しがしたいと申し出ると、教祖は決まって「たすけてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、たすけて欲しいと願う人をたすけに行くことが一番の恩返しやから、しっかりおたすけするように」というように、人をたすけることをいつも勧められたのです。そして多くの人が、ご恩返しに行くと言ってあちこちへにをいがけに行くようになったのです。

 最後になりますが、教祖のひながたとは何か。ひながたとはどんな困難な状況でも、絶えず親神様の御守護を探し、そのことに気付き、今喜べることは何かを見つけ、心勇んで通らせて頂くことを教えて下さっています。そして、教祖はなぜ真っ先に貧に落ちきられたのか。それは、欲の心をまず忘れるということであります。人間で欲のない人はいません。皆さんもそうですが、私も含め大なり小なり皆持っております。この親の道を辿らせてもらう我々が一番大切なことは、この誰でも持っているこの欲を忘れるということです。我々は貧乏になることが目的ではないのです。欲の心を捨てることによって、親神様の思いにふさわしい心になるということが目的なのでず。この親神様の思し召しの一番の妨げになるのは欲の心であります。そして欲を捨て去る一番の近道として、先人先生たちは御供、お尽くしをさせてもらおうと説いて回られたのです。貧に落ちきる姿は、自分の持ち物を手放してしまう姿であり、それはそれまでの暮らし方が変わることで、暮らし方に対する自分の考え方を変えることを意味します。我々が御恩報じというにをいがけ、おたすけ、また、欲を捨てるのには一番近道になる、御供、いわゆるお尽くしに努めさせて頂く上で、最も大切なことは自分の考え方や暮らし方を親神様の思いに合わせるということです。教祖は心を空にして、尊い親神様の思いを聞き入れる努力をするということを、貧に落ちきるというひながたをもって我々に教えて下さったのです。この五十年のひながたから、現在お道は183年目に入りましたが、200年も経たずに今や日本には隅々までおぢばの出張り場所である教会があり、世界中にも教会や出張所が広がっております。183年前に教祖一人から創められた道が、今や五十年のひながたによって、これだけありがたい姿になっているのです。我々はこのひながたや、先人の足跡に泥をかけることのないようにすることがつとめであります。四代・徳三郎会長は、理を立てるから身が立つ、理を軽くすれば身が立たなくなるといつもお話くださっておりました。理とは、親神様の思召。いわゆる思いであります。理がなければどれだけ頑張ろうとも、一時いいようになるだけで続くものではありません。本日、大教会を通して大祭の理を頂戴したように、おつとめの理をはじめ、理というのは自ら親神様の懐に入るのと同じように、自らが取りに行かなければなりません。いよいよ来年に迫ってきました、大教会創立百十周年に向け、まずはひながたを中心に生活する日々を心がけ、親の理、ぢばの理をしっかりと立てて通らせて頂き、一つでも多くの理を頂戴し、百十周年の三年千日がいよいよ折り返しの時期になる中、本年の心定め完遂が今の旬の理作りになるということを心に置き、立教183年も親神様、教祖へご恩返しにつとめられますよう。勇んで共々に通らせていただきたいと思わせて頂きます。

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