世話人久保善平先生講話(立教181年05月12日)

 只今は、結構に網走大教会の5月の月次祭に参拝をさせて頂きまして誠に有難うございました。又、常日頃はお道の御用の上にお励みを下さいまして誠にご苦労さまでございます。今日はお時間を頂きましたので、今私が思います所を暫くお話し申したいと思いますので、どうかよろしくお付き合いを頂きたいと思います。
今ご紹介を頂きましたように、私は現在、この教会の世話人という立場でつとめさせて頂いている訳であります。と申しましても、それだけが私がお道の上で頂戴している御用、或いは役目というわけではありません。本部員という立場で色々御用をさせて頂いておりまして、天理教校という学校、或いは学校法人天理教校学園というところでも立場を頂戴してつとめさせて頂いているのであります。また一方、教会でも会長という立場を頂いておりまして、あれこれと役目をもって毎日を過ごしているわけであります。
教会での御用、本部での御用、両方しっかりとつとめることが出来ているのかという事を思いますと、自信もありません。出来ているのか出来ていないのか考える間もないままバタバタと毎日を過ごしているのが正直なところでございます。今申しましたように、私も色々な持ち場立場がございます。おそらく皆さん方も、色々な持ち場立場をお持ちだと思うのです。

教会の中では、会長さんであったり会長さんの奥さんであったり、また会長さんの子供さんであったり、役員さんであったり、或いは布教所長さんであったり、一般の用木さんであったり、いろんな立場をお持ちの方がここにお集まりだと思います。また、それに加えて上級の教会の役員を務めておられたり、上級の教会でのさまざまな立場を併せてお持ちの方もおられると思います。また私もそうでありますが、お道の立場以外にも、家に帰れば父親という立場があったり、家内から見れば旦那という立場があったり、そういう家庭での立場もあると思います。また、お道の御用以外にも、勤め先をお持ちの方であるならば、そこでの立場持ち場をきっとお持ちのことだと思うのであります。今申したように私達お互いは、それぞれ様々な持ち場立場、或いは役割を持つ中で毎日を過ごしていると思います。

その持ち場立場が全く同じだという人はおそらく一人もいないかと思います。仮に自分の教会では会長を務め、上級の教会では役員を務め、家に帰れば父親だという人がここに数人おられたとしても、それぞれ教会は当然異なる教会でありますし、それぞれの家庭も異なっているのであります。ここに同じ教会の会長さんが二人いたらそれはびっくりする話でありまして、当然違う教会の会長さんが居られる。立場としては、会長であって、父親であって、或いは役員であってという人が居られるかもしれない。でも、会長、或いは教会の役員さんの毎日の御用のつとめ方というのも、それぞれの教会によって少々の違いは当然あるのでありますし、それぞれの家族の構成や、また教会に集まる人の顔ぶれなども異なっているわけですから、同じように会長であったり、或いは父親であったりという立場を持っていても、その中身まで同じだということではなく、果たさなければならないつとめも当然異なったものとなってくると思うのです。

このように、自分のなすべき事が皆、異なっている私たちではありますが、そのお互いが、毎日を過ごす中でまず考えることは、自分に与えられたその場所で、その持ち場立場で果たさなければならない役割をしっかりとつとめることが出来るように、ちゃんとこなすことができるように、頑張っていこうということだと思います。

中でもお道の信仰者である私たちは、それぞれの持ち場立場において、教えて頂いている御教えを基に一生懸命つとめ、親神様、教祖の教えを実践して、自らに与えられた役割、御用を何とか全うしよう。たとえ届かなくても自分にできる精一杯をつとめさせてもらおう。そんな気持ちで頑張ろうということを考えているのではないかと思うのであります。もちろんこうした心掛けは、改めて言わずとも、当たり前に大切なことである、ということも出来ましょう。

信仰するお互いとして、また一人の人として、自分がやらねばならないことを責任もってつとめるということは、先ず第一に心掛けていかなければならないことであるかと思います。でも果たしてそれだけで良いのでしょうか。自分のつとめさえ、自分の役割さえ果たせば、また皆がそういうことが出来る人になったならば、教会も家庭も身の周りも、何の問題もなくうまく回っていくかという事を想像いたしますと、少し疑問に思ってしまうのであります。何故かと申しますと、私たちの毎日は自分一人で成り立っている毎日ではないからであります。

教会であっても、家庭であっても、社会であっても、それぞれそこに属する人と人との関わりがあって、はじめて成り立っているのですから、自分一人が頑張ればそれでいい、周りの人は関係ないとは、決してなってこないというように思うのであります。私達このお道の者が目指すのは、陽気ぐらしの世界を実現する、というところであるということは、皆さんご承知下さっていることだと思います。

明治30年12月11日のおさしづで、「神が連れて通る陽気と、めんく勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めんく楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。めんく勝手の陽気は、生涯通れると思たら違うで。」とお教え下さっています。

神様が連れて通って下さる陽気ぐらしへの道と、また我々が勝手に求める、自分たち勝手な楽しみの道がある。でも周りの人を皆勇ませてこそ、喜ばせてこそ、そういう通り方をしてこそ、親神様がお望み下さる、本当の陽気ぐらしの世界へとお連れ通り下さるということだと思うのです。

それぞれが自分勝手に楽しみを求め、己のみの利益を追い求め、周りの人や後に続く人を困らせてしまう、或いは嫌な思いをさせてしまう、それは本当の陽気ぐらしとは言えないんだ。たとえ一時はそれで通れても、そんな勝手な過ごし方は、生涯通り続けられると思ったらそれは大間違いだ、ということをお教え下さっているようにも思うのであります。

我さえ良くば、今さえ良くばという通り方、或いは考え方があるかと思います。この我さえ良くば、今さえ良くば、いわゆる自分達さえ良ければ、今さえ良ければという暮らし方は決して本当の陽気ぐらしではないと思います。と言えば、皆さん「成程、それはそうだ」と思って下さるかと思います。中には「このお道の教えを知らない人が、我さえ良くば、今さえ良くばいう考え方、通り方になりやすいんだ。この教えを知れば、この教えを実践すれば大丈夫だ。そんな考え方や通り方にはなりにくいんだ、ならないんだ。」と思っている方も居られるかもしれません。

でも私たちが自分自身を振り返ってみたとき、この教祖の教え、教祖が教えて下さった親神様の御教えを知っているにも関わらず、皆を勇ませ喜ばせる、そういうことをあまり実行していない毎日を送っているということはないでしょうか。それなのに、「自分は信仰しているから。」、「毎日御用もしてるし毎日参拝もしているし。」という変な自信を持ってしまい、「自分は決して我さえ良くば、今さえ良くばの考え方をしていない。」と思い込んで通っているということはないでしょうか。信仰はしているけれど、周りの人に勇んでもらう、周囲の人に喜んでもらうということをつい忘れ、自分では自覚がないだけで、他の人から見たら充分今さえ良くば、我さえ良くばの通り方をしている自分になってしまっているということはないだろうかと反省をするのであります。

先程も申しましたように、私たちの毎日は、自分一人で成り立っているのではありません。多くの人との関わりの中での毎日であります。その毎日の中で、関わりある人たちに喜んでもらえるよう、勇んでもらえるように心を配る。つまり皆を勇ませる努力をさせてもらうということが必要だと思います。そして、このお道を通る私たちの皆を喜ばせる努力というものは、やはり教えに基づいたもの、筋の通ったものでなければならないと思うのです。

小さな子供を喜ばせようと、お菓子をあげるとき、人から盗んできたお菓子をあげても子供は喜ぶかもしれません。けれども、それが本当に値打ちが有るのか無いのかということは、想像をして頂けるかなと思います。

では、教えに基づいた、筋の通った皆を勇ませる通り方、これをするにはどうしたらいいのかということを考えてみたいと思います。私は今年の春の大祭で真柱様がお話を下さった、「一手一つ」ということを改めて考えることにそのヒントがあるのではないかと最近思っているのであります。

大祭でのお言葉の中で真柱様は、昨年お見せ頂いた、かんろだいの事情についてこう触れられました。
「各段を繋ぐほぞも破損し、据え替えまでの仮復旧もできなかった状態から、お互いの心のつなぎが欠けているとのお知らせのように思えたのであります。一手一つになれとのお仕込みだと感じたのであります。」
そしてそれに続いて、
「一手一つとは、同じ一つの目標に向かって、それぞれがその持ち場の役割を果たすとともに、相互に連携して活動することであります。」
とお話しを下さいました。

私たちこの道を歩みますお互いは年齢、性別、また持ち場立場いうものがそれぞれ異なりましても、皆、教祖がお教え下さった親神様の教えを信じ、お望み下さる陽気ぐらしの世界の実現に向かって、御教えを実践しながら毎日を通らせてもらおうと日々一生懸命つとめさせて頂いているのであります。

でも一人ひとりがどれだけ一生懸命にやっているつもりでも、お互いの向いている方向がバラバラで、一つ心になっていなければ、これは何にもならないと思うのであります。独りよがりの一生懸命ではいけないということではないでしょうか。

今回お見せ頂いた、かんろだいが倒されたという節を通して、私たちお互いが自分自身の通り方を振り返り、今までよりも少しでも親神様・教祖にお喜び頂けるような、ご安心頂けるような通り方ができるよう努力を重ねていくことが大切だと思います、ということは以前にここでお話をさせて頂いたかと思います。

今もそれが大事なことだと思っていることには変わりはありませんが、大祭でのお言葉を聞かせて頂いて、それだけではなく、自分一人のことだけではなく、周りの人と心を合わせ力を合わせ、互いに連携をもって歩んでいく、「一手一つ」ということを忘れてはならない、今それが足りないんだということを改めてお仕込み頂いたように思ったのであります。

私たちはこの一手一つという言葉をよく使います。しかし、自分自身、この言葉を使う時に、どこまでその意味を考えて使っているかいうことを考えますと、ただ単に何か目標を同じくする時、あるいは心を合わせていきたいと思う時、力を合わせるとか形を合わせるとか、何かを一つにする時に、便利な言葉として使ってしまっている、そんな気もするのであります。

お話し下さったように、それぞれの持ち場の役割を果たすと共に、相互に連携して活動をするいうような意味合いまで考えて使っていたのかと思うと、正直自信がありません。一手一つとは皆が目標を共有し、一人ひとりが自らの役割を自覚した上で責任を持ってつとめ、更には、自分だけではなく周りにも気を配り、共に手を携えて心を揃え、歩みを揃えて進んでいくことではないかと改めて考えたのであります。

私は今、目標を同じくするという言葉を使いました。お言葉の中では、「同じ一つの目標に向かって」という表現を使って下さっています。私たちが一手一つになるためには、何かお互いが共に持つことができる目標が必要だということであります。

ではその目標とは何でありましょうか。私たちは皆ようぼくであります。教祖がお付け下されたこの道に、しっかりとつとめてもらいたいとの思いでお引き寄せ頂いたお互いであります。これは、会長さんであろうが、なかろうが、ようぼくである私たちお互い皆同じだと思います。この道に引き寄せられ、ようぼくとしてお使い頂く私たちが共に持つべき、共に目指すべき目標は何かというと、最初にも申しましたように、親神様がお望み下さる陽気ぐらしの世界の実現に向かって歩みを進めるいうことに尽きるのではないかと思います。

親神様は人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたい、との思召で私たち人間をお創り下さいました。そして天保九年、「このたび、世界一れつをたすけるために天降った」との思召で子供である私たち人間をたすけ、陽気ぐらしの世界へと導くために教祖を「やしろ」としてこの教えをお始め下さったのであります。

以来約180年、この道を通る人々は、陽気ぐらしの実現を目指して進んできたのであります。ですから、陽気ぐらしに向かって歩みを進めるいうことこそが、我々道を通るお互いの共通して持つべき第一の目標だと思います。そしてその目指すべきところへ歩みを進めるために、教会本部というものが作られ、それぞれの教会が設けられたのであります。またその上に、婦人会や青年会などの各会、或いは次の時代を担う人を育てるために学校等も設けられたのであります。

私たち信仰します一人ひとりはもちろんのこと、本部や教会などでも皆、陽気ぐらしに向かって歩みを進めるという共通する大きな目標を持っているのだと思うのです。当たり前のことかも分かりませんが、改めてこのことを心に置くことが大事だと思います。

陽気ぐらしという大きな目標に向かって着実に歩みを進めるために、本部も教会も青年会も婦人会も、また学校もそれぞれ設けられ、それぞれこういうことを目指したいいう役目、目標というのを持っているのであります。

陽気ぐらしに向かって進むために、それぞれが果たすべき役割があり、その役割を全うするために、それぞれが目標や指針を考え定めて動いている、そういうことだと思うのです。一人ひとり、いわゆる個人の話であっても、個人でない話であっても、この道に繋がるものは皆、「陽気ぐらしという大きな目標に向かって進んでるんだ。我々の日々のつとめは、この陽気ぐらしを目指して歩んでいくということ一つに繋がっていくんだ。」ということをしっかりと心に置かせてもらいたい。ついつい毎日々々の目の前のことばかりにとらわれて、この大事なことを忘れてしまってはいけないと思うのであります。

私たちお互いは、それぞれが教会に繋がって信仰をしています。陽気ぐらしに向かうために設けられた教会に与えられた役割は何だろうかということを考えてみたいのであります。三代真柱様は立教百四十六年、直属の教会の会長さんが集まります「かなめ会」の席で、教会の使命というものは、三つあるように思うとお話しを下されました。ちょっと紹介をしてみたいと思います。
「その一つは親神様の思召を伝え、悩み苦しむ人々をたすけ、そして自分達の信ずるところの道を広めるということであります。いま一つは、教祖が徹底して勤めるのを急がれておるところのおつとめを、理屈抜きに、まじめに勤めさせていただいて、それによって親神様の御守護にすがり、世の中の治まりを御守護頂く事を願うことであります。それからいま一つを、特に別項目として挙げるならば、陽気ぐらしの土地所における手本となることであります。それは、一つめの角目と、二つめの角目を私たちが一生懸命に勤めて、親神様の御守護によって見せていただける、言わば結果というべきかもしれません。」
というものであります。

教会というところは、この御教えを信ずる人が、自分がたすけて頂いた喜び、また、結構に導いて頂いているその喜びから、今度は身上や事情に悩む人たちに、なんとかたすかってもらいたい、陽気ぐらしに向かって共に歩む人になってもらいたい、との思いをもってにおいがけ、おたすけに励むための拠点となる所。つまり、教会という場所からこの教えを伝え広めに出向く為の場所である、ということが一点。

またこの御教えを信じ、求める人たちが、教えを実行する為に寄り集い、世の治まりと人々のたすかりとを願って、教祖からお教え頂いたおつとめを、一心につとめさしてもらう所。つまり教会に人が寄り集まって、教えを求め、祈り願う為の場所である、ということが一点。

そしてにおいがけ、おたすけに励み、おつとめを真剣につとめるということを通して、それぞれの土地所において陽気ぐらしの手本となるご守護を、親神様から見せて頂きたい、そういう場所であるということ。これらの役割を担っているのが教会だということをお教えくださったように思うのです。

お道本来の目指すべきところである陽気ぐらしの実現に向かって、私達が歩みを進める為に、においがけ、おたすけに励み、教えを実践して、中でもおつとめを真剣につとめて、陽気ぐらしの手本ひながたとなる所、それが教会だという意味ではないかと考えます。
そしてそれぞれの教会では、今述べたような事を何とか実行していく為に、その方向に自分達の歩みを進めていく為に、大教会でもそれぞれの教会でも、目標や方向性を定め、毎日毎日自分達に出来る精一杯をつとめて、取り組んで下さっていると思うのであります。

では、それぞれの教会で、そこに所属する一人ひとりが思い思いにでも何とか一生懸命道を通れば、それでその教会が目指す所へ歩みを進めていく事が出来るんだろうかと思いますと、一生懸命に皆がやったからといって、思い通りにいくとは必ずしも限らないということも思ってしまうのであります。

例えば教会というよりも、信仰を持っている家庭、家族に置き換えて考えてみます。お父さんが居て、お母さんが居て、そこに子供が居る。皆自分なりに一生懸命信仰して、自分が成すべき役割を果たしたらそれでいいんだと思って毎日を過ごしている。これで全てがうまくいくかというと、必ずしもそうとは限らないように思います。

いくら一生懸命にしているつもりであっても、お父さんはお父さんのことだけ考えている、お母さんはお母さんのことだけ考えている、子供は自分の事だけ考えている、というように、それぞれが自分の立場だけを考えて毎日を通っておりますと、全体の事が見えなくなり、いつの間にか家族がバラバラになってしまう。皆信仰しているのにバラバラになってしまう。というような結果になる事も無いとは言えないと思うのであります。

真剣に一生懸命に通っているその中にあっても、皆がまとまるということを意識して、お互いがしっかり繋がる努力、共に歩みを進める努力、相手のことを考える努力をしないと、「一生懸命やっているはずなのに何でこんなことになるのかな。」というように、結果として皆が進む方向が微妙に異なってしまって、頑張っているはずなのにまとまらない、信仰しているのに一歩も前に進むことが出来ない、ということが起こってくることもあるのではないかと思うのであります。

家庭においてであるならば、自分の役割を果たすだけではなく、夫は妻を思いやり、妻は夫を立てて、親は我が子を愛しく思い、子は親に感謝をするというように、思いやりの心、お互いの通り方を理解しあう心があって、はじめて一つになっていけるような気がするのであります。もちろん、優しいだけではなく、時には厳しさが必要になってくる時もあるでありましょう。それでも自分一人が一生懸命やっていれば、頑張っていればそれでいいというのではなく、一人ひとりが頑張る事が出来るように、皆が前に進めるように、同じ方向を向いて、歩みを進めていくことが出来ているのかどうかを確認して、お互いが支え合い、たすけあってこそ、まとまりというものが生まれると思うのです。そして、その方向付けの芯となるのが、この御教えだということが出来るのではないでしょうか。

教会にあっても、似たようなことがいえるように思います。教会の中で会長さん、役員さん、信者さん、それぞれが自分の役目だけを考えて頑張っても、教会全体としてのまとまりや前進が生まれてきにくい場合もあるのではないでしょうか。

例えば大教会という単位で考えてみた時に、皆が自分の役割だけを考えて頑張っても、大教会全体がうまく動くとは必ずしも言い切れないところがあるように思います。もちろん全てがうまく動く時もあるでありましょう。皆が頑張って全てがうまく動いている時は、まとまっているように、前進しているように思いますが、同じようにしていても、いつもうまくいくとは限らないと思います。こちらが順調でもあちらがつまづく、ということが往々にして起こると思います。そうした時に、「自分は頑張っているから関係ない。」、「つまづいているのは私の仕事ではない。それは人ごとで知らん顔。」というのではお道の人らしくはないように思います。

自分のことだけを考えるのではなしに、大教会なら大教会が掲げている、目標、方針、今やらねばならない事をしっかりと確認をして、いわゆる全体の進み方をしっかりと意識をして、回りに気を配り、それぞれがお互いを思いやって、理解しあう努力をし、支える必要がある時には手助けをする、また注意をしなければならない時には、そういう声を掛け、互い立て合い扶け合う通り方、進み方を努力してこそ、陽気ぐらしという大きな目標に向かって、力強く歩みを進めていく事が出来るのではないかと思うのであります。

また私は、目標に向かって歩みを進めていく為には、何事においてもその元を知る、順序を知るという事が非常に大切な事だと考えています。

親神様がおられるから人間が出来たのでありまして、人間は親がいるから子が生まれ育っていくんだと思うのです。この元を知り、順序を知って、私達が神様を大事に思い、また子供が親を大切に思えば、また親がその子供を愛しく思い守り導くならば、互い立て合い扶け合う暮らしに近づいていくのではないでしょうか。

教会ということで考えるなら、このお道があるから、それぞれの教会があり、おぢばがあるから教会があるのであります。教会があるからお道が出来たのではありませんし、教会があるからおぢばがあるいうものでもないのであります。教祖が教えてくださった、親神様の御教えがあるからこそ、それぞれの教会が生まれたのであり、おぢばというところがあるから、それぞれの教会が成り立っているのであります。

こうした元を知り、物事の成り立ちの順序をしっかり抑えていくことが、陽気ぐらしに向かってお道を通る私たちお互いの良い匂い、またそれぞれの教会の今以上の良さ素晴らしさを周囲の人達に映していくことに、無くてはならないことだと考えるのであります。

先ほど申しましたように、「皆んな勇ませてこそ、真の陽気という」と教えて頂いています。皆を勇ませるには、私は自分が謙虚になる必要があると思っています。常に自分が正しいと思っていてはいけないと思うのです。何かの節に出会った時、壁にぶつかった時に、相手の人ばかりに責任を求めるようでは、きっとその相手の人も、他の誰かに責任を求め、何か犯人探しのようになってしまい、結果としてひとつ心になることが出来ず、誰も勇めない結果を生んでしまうということにもなりかねないと思います。

私が会長のお許しを頂いて間もなく、前の会長が身上を頂きまして、療養をしてます時にこんな話を聞かせて頂きました。

「みかぐらうたに、『なんぎするのもこゝろから
わがみうらみであるほどに』というお歌があるやろう。身上になった本人が自分を省みて反省をするということももちろん大切であるけれども、その人が病気になって、その家族が困っているのであれば、それはその家族だって、難儀していることには変わりないんだから、難儀するのも心から、我がみうらみをせにゃならん。親神様が何をお教え下さってるのかを思案せんとあかんのや。」

私は成程その通りやなと思ったのであります。身近な人が身上や事情で難儀をすれば、本人ではない周りの人達にも違った意味での難儀が降りかかってくるのであります。その時にどう考えればいいのか、苦しんでいる本人に、「あんたの心遣いが原因なんだから、あんたが自分自身を振り返って反省しないといけない。」と言えば、それでよいのでありましょうか。そうではないと思います。

私たちは身上や事情は、それぞれの心遣いやいんねんを、親神様がお知らせ下さっているんだ、たすけてやりたいとの親心からお見せ下さっているんだというように、人には説明をしていると思うのです。そうであるなら、身近な人の身上や事情という節に出会って、悩み苦しんでいるのであれば、それもその人に親神様がお見せくだされた事情、節に変わりはないと思います。そうした節に出会うべき心遣いやいんねんがあるはずなのでありますから、人の事、相手の事ばかり言うのではなく、自分自身の通り方を見つめ直す必要があるということだと理解をいたしました。

私たちは、身上や事情など、何か自分の思い通りにならない、いわゆる節に出会った時、つい自分以外のところに何か原因を求めたくなるものであります。でも、それでは神様の思いにお応えし切れてないのではないかという気がいたします。自分が難儀している時こそ、謙虚に素直に自分を見つめ、物事の成り立ちや順序を考え直して、自分の心遣いや行動が教えに沿っているのかどうかを思案していかなければならないと思います。

常に自分は正しくて、自分の都合のいいように教えを解釈してしまったり、教えの中から自分の通り方考え方に都合のいいところだけを引っ張ってきて自分を正当化するというのではなく、御教えに自分を合わせるように心掛けていくということが大切だと思います。

教祖が教えて下さったこの御教えは決して変わることがない、決して揺らぐことがない、陽気ぐらしへの確かな道筋だと思います。この根本をしっかり踏まえ、そこに自らの通り方や思案を合わせる、沿わせるということ、私はこれが身につけば自然と皆の心も揃い、皆を勇ませる通り方が出来てくるのだと思っています。

天理教教典にこのように書いてあります。
「一つに心合せるのは、一つの道の理に心を合せることで、この理を忘れる時は、銘々勝手の心に流れてしまう。
一手一つの心に、自由の守護が頂ける。いかに多くのものが相集つても、一手一つの理を欠くならば、親神に受け取って頂けない。人皆、相互いに一つの道の理に心を合せ、互立て合い扶け合うてこそ、陽気に勇んで生活して行ける。真の陽気ぐらしは、ここに全うされる。」

心を一つに合わせるには、皆が教えに心を合わせればいい。そのことを忘れると、皆勝手な心に流れてしまう。自由のご守護を親神様から頂戴するには、一手一つの心になることが大事なんだ。どれだけ多くの人が集まっても一手一つになるということを忘れてしまうなら、それは親神様にお受けとり頂けないことになりかねない。皆が一手一つを心掛け、教えに心を合わせてこそ、互い立て合い扶け合い勇んだ毎日を送る陽気ぐらしに近づくことが出来るという事だと思います。やはり一手一つということは、陽気ぐらしを目指すうえにおいて、欠かせない大切なことだと言えるでありましょう。

真柱様は、大祭のお言葉の中で、
「それぞれ与えられた役目について一生懸命に働いていても、ともすれば、目の前のことや自分たちのことだけにとらわれて、お互いがつながりを欠き、一手一つになれていないのではないか、」
ともお話しを下さいました。

一手一つになるためには、一手一つになるための努力が必要であります。一手一つになりたいと思えば、それだけでなれるものではないと思いますし、なりましょう、という掛け声だけでなれるものでもないと思います。同じ一つの目標に向かって、それぞれがお与え頂いている持ち場立場の役割を果たすとともに、お互いが連携をして活動をしていく。それをただ思うだけでなく、そうなったらいいなと考えるだけでなく、実践する実行することが必要であります。そのことは必ずしも皆が皆、同じことをやらなければならない、ということではないと思います。また与えられた役割を自分が、自分一人さえこなせばそれでいいというものではないと思います。

自らのなすべき役割を果たす努力をするのと同時に、同じ目標に向かって進んでいる人たちの心に動きに気を配り、教えて頂いているこの御教えを芯に、心を合わせ力を合わせて進んで行こう、その姿勢が求められているということではないでしょうか。
真柱様は、
「あらためて、世界一れつの陽気ぐらしという私たちの目標を見つめ直し、何よりもお互いがしっかりと心をつなぎ合い、一手一つに一歩一歩、地に足の着いた歩みを積み重ねていきたいと思うのであります。」
とお話しを下さいました。

このお言葉を、私たち一人ひとりが自分自身に向けて言って下さっているものとしてしっかりと心に治め、お互いの共通の大きな目標である陽気ぐらしということを改めて見つめ直すとともに、そこに向かって歩みを進めていくために、頂戴しているお互いのようぼくとしての役割、またそれぞれが所属している教会や大教会の目標や進むべき方向性をしっかりと認識をして、本当に心を合わせ、力を合わせ、互い立て合い扶け合う通り方が出来るように努力をさせて頂きたい。そうした心掛けをお互いが忘れないように毎日を通らせて頂きたいということをお願いを申しまして、本日の私の話とさせていただきたいと思います。
ご清聴頂きまして誠にありがとうございました。

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