世話人久保善平先生講話(立教179年11月12日)

 皆様方には、常日頃はそれぞれのお立場の上で、お道の御用の上におつとめを下さいまして誠にご苦労さまでございます。只今は結構に網走大教会の十一月の月次祭に参拝をさせて頂きまして誠に有難うございました。

今年の1月26日、教祖百三十年祭が勤められ、諭達第三号をご発布頂いて以来、それぞれが取り組んできた年祭活動が、この日をもって一区切りを迎え、今まさにこのお道は次への一歩を踏み出すべき時が来ているように感じているのであります。
本年の秋季大祭において真柱様は、「教祖の年祭を勤め終えて、年祭という節目を目指しての活動の上に立って、あらためて足元を見つめ直し、本来の目的である陽気ぐらしの世界実現に向けて、一層の道の進展と、銘々の成人を図らなければならない現在であります。」と、お話を下さいました。今日こうして皆さん方の前でお話をさせて頂く機会を与えて頂きましたので、今私の思いますところを少しくお話をさせて頂きたいと思いますので、暫くの間お付き合いの程をお願い申し上げます。

(四拍手)

今年の3月、ここに寄せて頂きました時に、年祭当日の真柱様のお言葉の中から、「これからの歩み方を思案する時、何にもまして道の将来を担う人材を育成する必要性を強く感じるのであります。特に陽気ぐらしの世界建設のために立ち働く用木を育てること、増やすことに力を入れなければと思うのであります。」という部分を引用いたしまして、育てる、あるいは丹精するという事に重きを置いた話をさせて頂きました。

この時に仰った「ようぼく」という言葉は、特に老若男女のどれかを特定して仰せられたものではなく、これから先、我々と共に陽気ぐらしの実現に向けて、一緒にこの道を歩んでくれる人を指して居られたと受け止めてお話をさせて頂いたのであります。これからのお道を考えた時、この道を歩む人を増やす、道を通る人を育成するという事は、本当に必要で、成さねばならない事だと思うのであります。では道を通る人を増やす、人材を作っていく、それにはどういう方法があるのかと考えますと、私は大きく分けて二つあると思うのであります。

一つは、にをいがけ・おたすけに励み、まだこのお道の教えを知らない人に伝え広めて、そして感じ入って下さった方に、しっかりお話を取り次いで、丹精を進めていくということ。そしてもう一点は、すでに教えを信仰している人達の子供たち、孫たちが順調にこの道を通ってくれるように育て導いていく、という事の二つがあるように思うのであります。特に今日はこの二つ目の点を中心にして、思うところをお話ししていきたいと思います。
我々お道を信仰しているお互いが目指しているものは、何と申しましても、親神様がお望み下さる、「陽気ぐらし」の世界を実現していくという事であります。私たちお互いが御教えを自ら実践して、自分の心のほこりを払い、にをいがけ・おたすけに励んで、陽気ぐらしをしようという人が、一人また一人と増え、そしてまた、その陽気ぐらしをしようと思ってくれた人が、親から子、子から孫へと代を重ねて御教えを伝え、伝えられた子や孫たちがまた教えを伝え広めていったならば、その繰り返し積み重ねのなかで、「陽気ぐらし」はいつの日にか必ず実現する日がやって来るのだと信じるのであります。その為にも、人から人へ、教えを伝え広める布教、にをいがけ、それと共に親から子、子から孫へと教えを伝える「縦の伝道」ということは、私は、両方必要なことであると考えるのであります。
「縦の伝道」という言葉を聞かれますと、「少年会」という事を思い出される方も多いと思います。今日の大教会長さんの祭文にもありましたが、去る9月25日、天理教少年会は創立五十周年記念式典を開いたのであります。今から50年前、教祖八十年祭が勤められた昭和41年の10月26日、二代真柱様は「縦の伝道」を推し進めるために、天理教に「少年会」というものをお創り下さったのであります。この「少年会」の目的は、親神様がお望み下さる陽気ぐらしを実現するために、教祖が私たちに教えて下さった、この御教えを子供たちが小さい時からしっかりと教えて、身につけさせて、やがては立派な「ようぼく」になってくれるように、育て導いていくという事にあるのだと思うのであります。
教会や、布教所や、信仰ある家庭に生まれ育った子供たちに、順調にこの教えが伝われば、そこで育った子供たちが皆、教えを実践する「ようぼく」に育って行けば、私はそれだけでもこの道の信仰者が減っていくという事はないように思うのであります。皆が皆、教えを実行するように育って行けば増えていくはずだと思うのでありますが、現実にはなかなかうまくいっていないのが正直なところでありましょう。
自分の子供たちの中で、一人でも信仰を継いでくれればそれで良いというようになっている所もあるようにも思えますし、また、どれだけ頑張っても、結局誰も受け継いでくれる人がいなかった。という所もあるのであります。
信仰が親から子へ、子から孫へとなかなか思うように伝わっていかないという現状があると思いますが、これは何も今、突然起こった問題ではないのであります。二代真柱様のお話を勉強させて頂いていた時に、この50年前、あるいは戦争が終わった直後の70年程前のお話にも、そうしたことを話されているところを見つけたのであります。
例えば、昭和21年のお話には、「親の信仰を以て自らの信仰として立ち上がり得なかった同志のある事を思います時、私は斯くして道に遅れた人々に対し、親がその信仰によって得た喜びを子供が受け継ぎ得なかった事をまことに気の毒に思われてなりません。」と、親の信仰がなかなか子供たちに伝わっていかない、その事をお話し下さっているのであります。また約50年前、昭和42年のお話には、「親の喜びがしっかり伝わっておらなかったが故に、話の一環としては承知しながらも、道から外れておるという人、今日何人ありましょうか…」と、お話を下されています。

親の喜びが子供に伝わっていなかったが故に、話の一つとしては、お道のことを分かっているつもりでいても、結局自分は通らなかったという人がどれぐらいいるだろうか。という意味のお話でありましょう。本当に随分以前から親から子、子から孫へと教えを伝えていく、この伝道の難しさということは、お道が抱えている長い間の課題であると言うことができましょう。
二代真柱様は、「縦の伝道」について、「縦とは何であるか。それは、親の喜びを子に伝え、子の喜びを孫に伝える。信仰の喜びを一貫して、縦に、子々孫々にまで伝えて末代に及ぼす。このことが縦の伝道の意味であります。」とお話し下されたことがあるのであります。親から子、子から孫へと教えを伝えていく。その事の大切さは我々も重々分かっているつもりでありますし、また、よく口にもしているのであります。しかし私は、今紹介したお言葉を読ませて頂いて思いましたのは、二代真柱様は、単に信仰を伝えるという事だけを仰っているのではなく、「信仰の喜び」を伝える、という事を仰っていることが気に止まったのであります。私はここがよく思案をさせて頂かねばならない大事な要点ではないかと思ったのであります。
信仰ある環境に生まれながら、この道を通っていない者も多くいるのであります。一生懸命この道を通らせてもらおう、教祖にお喜び頂こう、ご安心頂こう、というように思っている人であるならば、何とか我が子にもこの道を通ってもらいたい、こうした気持ちを必ず持っておられる事だと思います。そして、同じ思いをおそらく我々の親々も必ず持っていてくれていたのではないかと想像をするのであります。いつの時代においても変わることのない多くの道を通る者の共通の思いではないでしょうか。
しかし皆が皆、自分の子供に教えを上手に伝えることが出来ていたとは言い切れず、結果から見ると、教えが上手に伝えられなかったことも多いのであります。親が子供に、自分の一生懸命通っている姿や神様の話を見せたり聞かせたり自分ではしているつもりでも、肝心の「信仰の喜び」という部分を上手に映すことが出来ていなかったのではないか。その喜びが映らなかった時に、子供は道を外れてしまいがちだということではないかと思ったのであります。では、何故そうなってしまうのかという事について少しく考えてみたいと思うのであります。
例えば、「子供は親の背中を見て育つ」と言う言葉がございますように、自分があれこれ何を言わなくても、神様の御用をしっかりさせてもらったならば、一生懸命にこの道を通ってさえいれば、子供はきっと自分の事を見ていてくれる、分かってくれるに違いない、きっといつの日か伝えることが出来るであろう、という考え方もあるのであります。もちろん、これにも私は一理あると思っているのでありますが、親の姿を見て色んな事を感じ取ってくれるのも子供であれば、姿を見ているだけでは、なかなか真意を分かってくれないのも、子供の特性で、親が見てほしいところだけを見てくれる存在ではないと思うのです。
一生懸命頑張っている親父の姿を見ているのも子供であれば、鼻をほじってだらしない姿を見ているのも子供なのであります。親の良いところも見れば、悪いところも見ているのであります。親としては見てほしいところを、たくさん稼いだつもりでも、見てほしくないところもたくさん見られて、結果的には差し引きゼロ、あるいはマイナスという事があるのかも分かりません。そして、何より子どもは物事を見えたまま、聞こえたままに受け止める傾向があり、言葉の裏というものはなかなか読めないのが子供であります。
例えば、私が家で家内と話をしているといたします。ある信者さんの事で色んなことがあり、その人に何とかたすかってもらいたい、という思いで、先ずは状況を話するために「あの人がこんなこと言って困ったもんだ」という話を、仮に子供がいる前でしたといたします。夫婦のことですから、心の中では、「でも何とか、この人を繋げないとなあ、頑張らせてもらわないとなあ」と思っておりましても、なかなか頑張ろうというようなことは、恥ずかしくて言えるものではありません。その部分は塞いで、話が終わってしまっている事も多いように思います。では、それを見ていた子供がどう思うか想像いたしますと、「何とかこの人のために頑張ろう」という隠れた部分を受け止めるのではなくて、「あの人こんな人で、困ったものだ」というところを受け取っているのではないかと思うのであります。親が不足っぽいことを言えば、これは親が不足している、文句言ってる、愚痴ってる、という様に受け止めてしまうのが子供でないかと思うのであります。
つまり、親がこういうふうに子供に感じ取ってもらいたいと思うならば、口に出して伝えなければ真意を受け取ってくれない、こうなんだよと、はっきり口に出して、初めて分かってくれるのが、子供の特徴だと思うのであります。
信仰をしっかりと伝えていくために、必要な時にはしっかり言葉に出して言い聞かせるという事を、親が心掛けていることが出来ているのかどうか。例えば、しんどい道中を通っている時、親自身は、そのしんどい道中を通るのが自分のいんねんという事を悟って、本当に歯を食いしばって頑張ることができても、一緒にいる子供にすれば、何も分からず、ただ寂しく辛い思いをしているだけで終わっている事はなかったでありましょうか。そうしたところに親として、しっかり気を配ることができていたのかどうか、等々振り返って考えねばならない点はたくさんあるように思うのであります。
これも二代真柱様のお言葉でありますが、「親の喜びを子供に伝える。そのためにはどれだけの骨折りをしてきたか。私はそれを思案してみます時に、私達の骨折りはまだまだ不十分であったと考えるのであります。(中略)これは私たちのさんげする筋であると思います。即ち、横の布教の忙しさにまぎれて、縦の伝道を怠っておったということになるのであります。」というお話であります。
親の信仰の喜びを、我が子に伝える事は大事であります。でも、その努力を十分にしていたのかどうか。自分の子供に教えを伝えていく、という事の必要性は重々に感じながらも、「教えなくてもきっとわかってくれるだろう」という事なのか、「我が家の事は二の次だ」と考えたのか、布教に、にをいがけ・おたすけに力を入れる程には、子供に教えを伝える事に努力をすることが出来ていなかったという事ではないでしょうか。
今の我々も考えねばなりません。にをいがけ・おたすけに励み、布教に力を入れているうちに、後ろを振りかえると、自分の子供がついて来ていない、という事はないでしょうか。布教や、にをいがけ・おたすけと同様に、次の世代を担ってくれる子供たちに、道を伝える「縦の伝道」にも、しっかり力を入れる。この両輪をうまく動かしてこそ、上手に前に進んでいくことが出来るのではないかと考えます。
自分の子供に教えを伝える、信仰を伝える、その事は、やはり親の信仰の喜びを伝えていく事でありたいと思うのであります。喜びが、代を重ねて続いて行ってこそ、太い確かな道になるのではないでしょうか。信仰の喜びを伝えるいうと、何か特別なことを言っているように思うかも分かりませんが、道を通る私たちお互いにとっては、別に特別な事ではないと思うのであります。いわゆる、にをいがけ・おたすけに励んで、お道のお話を知らない人に伝えよう、あるいは教えを初めて知った人を丹精して行こう、という時には、私たちお互いは皆、何とかこの信仰の喜びをその人に分かってもらおうという努力をしていると思うのであります。
「縦の伝道」も、それと同じであります。相手が子供とはいえ、人に教えを伝えるという観点から見れば、教えを布く布教であります。そう思えば、この道を通る喜び、信仰を基に毎日を過ごす喜び、いわゆる信仰の喜びを相手に伝えないといけないのであります。にをいがけ・おたすけの時と伝える対照が違うだけであります。教えを伝えるという意味においては、大人に対する時と、我が子に対する時と、同じ気持ちで臨むことも必要ではないでしょうか。とはいえ、口で言うのは簡単でも実際にそれをする事は難しい、色んなことがある道中、ましてや、一緒に暮らしている自分の子供に喜びを伝えるという事は難しい、と思われる向きもあるかも分かりません。私はその伝え方のヒントはやはり、教祖の「ひながた」の中にあるのだと考えるのであります。
例えば、教祖は貧に落ち切られたその道中、ご自分のお子様と一緒に通られたのであります。貧しく寄り来る人も居ない中にあっても、私は、教祖は明るく勇んでお通り下された事と想像をするのであります。側に居るのは自分の子供だけだからといって、愚痴をこぼされたという事は一切なく、逆に、ともすれば落ち込みがちになられる子供さん方を励ましながら、勇ませながら仕込んで通られたと想像しています。
例えば、ある時こかん様が「お母さん、もうお米がありません。」と仰った時には、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。」と諭されたとも聞かせて頂きますし、ある月の明るい夜には、糸紡ぎをしながら「お月様が、こんなに明るくお照らし下されている。」とお話をされたということも聞かせて頂くのであります。
我々ならどうでありましょうか。自分の子供と自分だけで、そうした状況におかれた時に、ついつい子供の機嫌をとるように、不足みたいな事や、言い訳みたいな事を言ってしまったりしていることはないでしょうか。教祖はどんな中でも、親神様のご守護の有り難さ、その喜びを正直に我が子に教えておられるのだと思います。
それも、ごまかす事なく、言葉に出して、しっかりときちんと教えておられるように思うのであります。また、時には単に喜びを教えるだけではなく、「どれ位つまらんとても、つまらんというな、こじきはささぬ。」と注意を促しておられる事もあるのであります。私はやはりこうしたところに、我々道を通る者の、子供達を育て導いていくお手本「ひながた」をお示し下さっていると思えてなりません。

信仰の喜びというものは、一見して誰が見ても分かる喜びだけを指すものではない、ということはご承知下さる事と思います。誰でも喜べる嬉しいことを、喜ぶことはもちろんでありますけれども、いろんな道中を通る中で感じる親神様のご守護や、教祖のお導き、たとえ一見喜ぶことが難しいようなことであっても、この道を通っているからこそ味わえる、「ありがたいなあ。けっこうだなあ。よかったなあ。」という喜び。これも伝えていかねばなない事だと思います。それも単に、「喜べ。」、「喜びなさい。」と命ずるように言うだけではなく、きちんと話をして、「ありがたいなあ。けっこうだな。嬉しいな。」と言って、自分の気持ちをしっかり伝えていくことが大切だと教えて下さっていると思うのであります。

「喜びや楽しみに満ちた気持ちを与えることが肝心である。いわゆる『泣いて果たすか』というような陰惨な、暗い、歯をくいしばって我慢しているというような気持ち、それがお道の生活であるというような気持ちを、子供に与えることは、これはもう大の禁物である、と言いたい。」と二代真柱様はお話を下さっているのであります。時には歯を食いしばって、我慢して、辛抱して通ることも時には必要かもわかりません。きっと必要であるでしょう。でも、それがこの道の通りかたの第一義ではないということを、教えて下さっていると思うのです。

お道を通るには、やはり、「第一に喜び、楽しみ、明るさを持つことが大事なんだ。」という事だと思います。きっと私たちは、自分たちに繋がる信者さん方、自分たちが導いて、教えを伝えていった人たちに、お話をするときや、おたすけに取り組む時には、自然とそうした努力をしているような気がするのであります。先程も申しましたように、人に話を伝える以上は、次の代を担っていく子供たちにお道の話を伝える時にも、やはり同じような心持ちで臨むということも必要だと思うのであります。

二代真柱様は、お道の「縦の伝道」は、子供を信仰家庭に生まれたまま、親の信仰を見習えばよいというだけで、放っておいたようなものであるというような意味のお話をされたこともあります。つまり、生まれたままの子供を裸のままで育てているようなものだというような意味で話をされたのであります。

普通人間が、子供を育てる時は、もちろんお母さんのお腹から生まれ、真っ裸であるその子供に、服を着せ、年に応じた食べ物を与えて、様々な世話取りをして大きくしていくのであります。裸のままでも、もしかしたら大きくなっていくのかもわかりませんが、そんなことはせずに、やはりそれなりの世話取りをして育てていくのであります。

信仰を伝え、育てていくという上においても、それと同じようなことが言えるのではないか、という意味だと私は受け止めたのであります。信仰を持った親の下に子供が生まれたら、親に信仰があるという以外はまだ何も教えられていない、いわば、真っ裸のような状態の子供に対して、それをただ放っておいても、信仰ある子供に育つと考えるのではなく、道を通る子供に育てようという気持ちを持って、信仰を身につけるために必要なものを、子供に服を着せ、食べ物を与えて大きくしていくように、あの手この手を使って教え、成人するにふさわしいしつけをしていくということが求められるという意味だと思うのであります。

親が自らしつけをする、信仰を教える、いうことももちろんでありましょうが、親の力だけでは正直出来ないこともあるのであります。親がいくら思いを掛けてもそれだけでうまくいくものではありません。子供というものは、親の言うことを素直に聞いてくれない時も多いのであります。親よりも学校の先生や先輩や、あるいは友達というような人の言う事を素直に受け入れる時期もあると思うのです。

ですから、子供たちに信仰を伝えていく上において、親だけでなく、道を通る先輩の指導があれば、もっと子供はよく教えを受け止めてくれる、成人することができる、きっとそうに違いない、そうお考えになられたからこそ、「少年会」というものを作って、子供たちを育てる体制を整えようとなされたと思うのです。

子供に教えを伝える、そのことは大切だとわかっていながらも、なかなか思うように進まないこともありましょう。「縦の伝道」の主となるものは、やはり親であることには違いないでしょうけれども、親だけでは出来ず、その出来ない所を、周りにいる教会の者や、あるいは近所の信仰している人が、一緒になって力を合わせて育てていこう、そうしたらきっとできる。親はもちろん、周りの人も力を合わして子供に信仰の喜びを伝えていこう、教えのすばらしさ、ありがたさを伝えていこう、そこが大事な点だと思うのであります。

また、みちのとも九月号に掲載されていましたが、教会長さんの子供たちを始め、これからのお道を担ってくれる若い人たちには、高校や高校卒業後など、どこかの段階で是非とも親里おぢばにある学校で学んでもらう機会をもってもらいたいと思うのであります。おぢばには、天理高校のⅠ部あるいはⅡ部、また天理教校学園高校という3つの高校がございます。高校卒業後には、天理大学や、天理医療大学という大学もあります。高校を出たら学ぶことができる、天理教校専修科や、大学卒業後に行くことができる、天理教校本科実践課程、あるいは研究課程など多くの学びの場があるのであります。これらの学校には多くのお道の若者が集まってまいります。その多くの仲間が共に学び、共に時を過ごすことによって、自分の生まれ育った町で、親の元にいるだけでは、なかなか得ることの難しいおぢばの素晴らしさ、お道の素晴らしさを身につけることができる機会であります。

更には、今申した学校は、短いものでも2年で、高校は3年であります。大学なら4年で、つまり2年以上の年限をおぢばで過ごすことになるのでありまして、その者にとっては、それこそ第二の故郷といえるぐらいの時間を過ごすことにもなるのであります。おぢばは帰る所だと耳には致しますものの、やはり長い間そこで暮らしたことのない人にとっては、帰る所と聞いてもやっぱり知らず知らずのうちに、行く所になっているとも思うのであります。しかし、そこで長い年限を過ごすことによって、やっぱりおぢばは帰る所だということも感覚として身につけてくれやすいのではないかと思うのであります。

将来、この道を担ってくれる、担ってもらいたい若い人たちが、おぢばの学校で学び、時を過ごすということは、道を通る人材を育成していく上においても、非常に大きなポイントになるようにも思います。もちろん親元を離れて、地元を離れてということには色々大変な点もあるとは想像するのでありますけれども、将来この道を担ってくれる人に、お道の大切な点を、素晴らしい点を伝えていく上において、本当に大きな値打ちを見せて頂けることに繋がっていくというように思いますので、どうか若い方々に親里、おぢばにある学校への進学を進めて頂きたいと思うのであります。

最初にも少し触れましたが、そうした信仰のある家庭に生まれた子供たちを、きっちりと道を通るようぼくに育てていきたいのであります。信仰ある所に生まれた子供たちは、まさに神様によって、生まれた時からこの道に引き寄せられているのだと思います。生まれた時が、あるいはお母さんのお腹に宿った時が、にをいがけをされた時と言ってもいいのかもわかりません。引き寄せられるべくして引き寄せられた人たちだと思います。

信仰ある環境で育ち、将来道を素直に通ることが、その子にとって必要だから、その子の為になるから、その子の幸せに繋がるから、その家に、その親の下に生まれたんだと考えるのであります。簡単なことでないことは重々承知して話しているつもりでありますけれども、兄弟のうち誰か一人が信仰したらいいんだ、というのではなく、一人一人が幸せになるために、けっこうになるために、神様にたすけて頂くために生まれてきたのでありますから、何とか皆に道が伝わるように、皆が道を通るように心掛けていかねばならんように思うのであります。

そうしなければ、その子たちに道をきちんと伝えなければ、親の思召にかなわないような気が致します。子供たちをたすけ損なってしまうようにも思うのであります。そうした所に生まれ育っていく子供たちを、真っ直ぐに信仰に繋げていくこと、その為に「縦の伝道」に励むということは、そこに生まれた子供たちを幸せにする、たすけていくことに繋がるんだ、私はそのように信じているのであります。子供たちに信仰を教えるには、「皆さん方自身が、ひながたの道を歩みながら、かく、ついていらっしゃいとすることが一つの問題であります。」と二代真柱様がお示し下さったように、まず育てる側、導く側にいる我々自身が、教祖のひながたの道をしっかり辿らせて頂くということを実行することが大切であります。相手が信仰に対して、ある意味斜めに構え、聞く耳を持ちにくい、そんな時にこそ、こちらが勇んで道を歩むことが大切だと思うのです。道を通っている人は、何か勇んでいる、何でこんな時に勇めるだということを見せる必要があるように思います。

「道に外れたる心で育てようと思うた処が育たん。」
とおさしづでお教え下さっておりますけれども、やはり道に外れた心では子供たちに信仰は伝わりません。親が、大人たちが、この子供を道を通る者に育てようと、道を通る心で思わなければ、接しなければ育たないと思うのであります。自分が通らなければ、相手には何も映らないのであります。自分が喜ばなければ、相手は喜んでくれないんだと思うのであります。これは何も子供相手に限る話ではないでありましょう。言うだけ、命令するだけになってしまっては、人には映らないのでありますし、それでは人は付いて来ないという事はご承知頂けると思います。言っている事と、やっている事が違うという人は、大人であってもその人の言う事は聞きにくいと思うのではないでしょうか。あの人は言っていることとやっている事が違う、あの人の言うことは聞きたくない、というようなことを我々も口にした事があるように思うのであります。

子供たちにそうした思いをさせないように、自分の心と言葉と行いを一致させるようにお互いが努力を致しまして、相手に「成程」と思ってもらえるように、信仰の喜びを映すことができるように、お互いの努力をさせて頂きたいと思うのであります。私たちが陽気ぐらしに向かう上において、にをいがけ・おたすけに励むことは欠かせないのであります。しかし、それと同時に、子供や孫に教えを伝える「縦の伝道」にもしっかり力を注いでいかねばなりません。

我々が育てよう、導こうとしている子供たちは、十年後、二十年後、三十年後にこの道を背負ってくれる大切な人材であります。そしてそれだけではなく、さらに、その十年後、二十年後、三十年後を背負ってくれる、次の世代を生み育ててくれる人材でもあります。今、私たちが一生懸命にをいがけ、おたすけに励んでこの道を通らなければ、彼らの時代にこの道が続いていかないというのと同様に、今私たちが、次の時代の人たちを育て導くことに力を注いでいかなければ、我々がどれだけ頑張っても、道の将来を背負う人がいなくなってしまうのであります。それではいけないと思うのであります。

子供が大きくなるには、成人をしていくには時間がかかるのは当然だと思います。だからこそ、子供たちが小さい頃から、しっかり教えを身に付けさせるということは大事なことだと思います。長い目を持って教えを身に付けさせていくという考え方も大事だと思います。小さいからこそ身に付く、自然と習慣になる、その子の考え方の基本になる、いうことも多いと思いますし、長い間時間をかけて、初めて、「あぁ成程な、あの時はこうだったな」と心に治まっていく事も多いように思うのであります。

小さい頃から教えを、また、喜びを教えられた子供は、自分が親になった時に、自分の子供にもきっとそれを教えるでありましょう。だからこそ、「まだ小さいから、今から教えなくてもいい、もう少し大きくなってから教えたらそれでいいんだ。」ということでは、結果として遅れてしまうことにもなりかねません。

何とか少しでも早いうちから少しでも長い時間をかけて、この教えを、この喜びを次の世代を担う人たちに伝えていくことができるように、お互い努力をさせて頂きたいと思うのであります。「縦の伝道」は、成果を見るまでには時間の掛かることであります。それだけに、この道の上には、本当に欠かすことのできない大事なことだということを、お互い改めて確認をさせて頂きたいと思うのであります。

二代真柱様は、「皆さん方は、しっかりと心を神一條に通わして、欲を忘れたひのきしんの態度に徹底し、皆が一手一つに扶け合いながら、教祖の道具衆としての理を許されておるという喜びを以て、世界の隅々、或は孫子をかけて、道の喜びを伝えて頂きたいのであります。自分の抱いておられるところの喜び、その喜びをしっかりと、広い世界の隅々までも、又孫子をかけて、何時何時末代かけて、いわゆる布教し、伝道さして頂くということが、教祖の道具衆としての理を許されておる者の誇りであるとお考え頂きたい。」とお話を下さいました。

末代かけて、縦にも横にも教祖の教えを伝え広めていくことが、我々の使命だということでありましょう。また、三代真柱様は、「私達が信仰をただ自分一代で終わらすのではなくて、末代かけてこれを伝えてゆき、代を重ねるとともに一層の磨きをかけることが、少年会に対する真柱様(これは二代真柱様のことであります。)の思召であったと思うのであります。」とお話を下さいました。代を重ねて磨きをかけていこうということでありましょう。

そして、今の真柱様は、昨年の少年会の年頭幹部会という席上において、「教祖の教えを間違いなく次の代へ伝えて後継者を育成することは、常にこの道の課題でありました。おさしづに、『続いてあってこそ、道という。続かん事は道とはいわん。』とあります。代を重ね信仰の喜びを受け継ぎ、自らも真剣に歩んで新たな御守護の感激を得て、初代や二代では味わうことの出来なかった喜びを味わい、更なる成人の姿へと進むのが、後に続く者の使命であると言えるでしょう。この道は、お互い一代限りのものではなく、教祖がお付けくだされた末代続くたすけ一条の道なのであります。」とお言葉を下さいました。

私はこうしたお言葉を読ませて頂いた時、何か一本貫かれたものを感じたのであります。多少表現が変わることはありましょうとも、歴代の真柱様の「縦の伝道」に対する思いは本当に揺れることなく、ぶれることなく続いているんだという思召を感じさせて頂きます。

「縦の伝道」は、一朝一夕に進むものではありません。道の後継者の問題は、本当に長い間抱えているこの道の課題であります。だからこそ、一人の人間が大きくなっていくのに、長い時間を必要とするように、非常に長い年限をかけて一つ一つ前に進んでいく、前進していくような課題である、というように思います。

どうか変に結果を求めて焦ってしまうことなく、私たち自身が素直に道を求めて、根気強く取り組んでいくことで、子供たちに教えを伝えるというこの大きな大きな課題が少しでも前に進むように、努力をさせて頂きたい。根気強く取り組んでいけば将来必ず実を結ぶということを、心に思って進めさせて頂きたいと思うのであります。

教祖百三十年祭は、最初にも申しましたように、今年の1月につとめ終えられたのであります。しかし、この道は末代まで続く道であります。我々の代で終わる道ではありません。年祭が終わったからといって終わる道でもないのであります。陽気ぐらしの実現に向かって、先に楽しみをもって、ずっと歩みを続けていかねばならない道だと思います。

教祖百三十年祭が終わった今、にをいがけ・おたすけに励ませて頂くと共に、これから道を通る道の次代を担う人の丹精に励ませてもらう。共にこの道を歩んでくれる人を導き丹精し、陽気ぐらしに向かっての歩みを共々に進める。私たちが今、取り組まねばならない大きなポイントは、そこにあるように思うのであります。そのためにもまず私たち自身が喜んで毎日を通る努力、すなわち親神様のご守護と教祖のお導きに、「ありがたいな。けっこうだな。」と思って行動をする努力、報恩感謝の心を忘れず、教えを求め、教えを実践する努力をしっかり重ねさせて頂きたい。喜べる毎日を送るには、喜べる努力をすることが欠かせないことだと思うのであります。

どうか次なる塚へ向かっての第一歩をお互いが力強く踏み出して、この道が陽気ぐらしに向かって真っ直ぐに続いていくように、末代までしっかりとした道が続いていくように、共々に勇んでご用に励ませて頂きたいということをお願い申しまして、少し長くなりましたけれども、今日の話とさせて頂きたいと思います。
どうぞよろしくお願いを致します。

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