大教会長様講話(立教184年11月号)
【親神様のてびき】
人間は皆幸せに楽しく暮らしたいと思っています。それはもっともで親神様は陽気ぐらしをさせたいと人間を造られたからです。人間は本来、自然に神様の思いにそって生活をしていれば、陽気ぐらしになっていきます。
しかし、その人間を造られた親神様の思いとは反対に、我々は病苦や災難、家庭や職場での人間関係などでその身が不幸になり、嘆いて日々を暮らしている人がたくさんおられます。何故こういうことになるのか。それは世の中の人は、親神様を知らずに人間を造られた深い親心を知らない為、自分だけが幸せになるように考えるからです。このお道の世界を知らない人たちは、親神様が人間を造られた親であるという事を知らないが為に、皆親神様から見れば兄弟姉妹だということが解らず、銘々が自分勝手になり、争ったり傷つけたり邪魔したり、己さえ良ければと思い生活をしています。そして、その心は、我さえよくば、今さえよくばという身勝手な行いとなり、他の人々の心を傷つけ曇らせてしまうのです。そして気づけばそのことがきっかけで自分自身の心さえも傷つけ曇らせている人々が多いのです。
おふでさきの御歌に
月日にハたんくみへるみちすぢに こわきあふなきみちがあるので (七―7)
とあるように、親神様は何も知らない子供たちが自分だけの幸福を追いかけている時には、恐く危ない道が待っているのを知っているのでそのことを早く子供に知らせてあげたいと、いつも心配されているのです。そして人間思案の心得違いを知らせてやろうと病気や悩みとしてしるしをみせ根本の心の置きところを変えないといけないよとお知らせ下さっています。すなわち病気や悩みに現れることは、すべて私達を陽気ぐらしへ導こうとされる親神様の「てびき」になるのです。
【てびきとは】
例えば子供が崖の淵をうろうろと歩いている時に、親はそっとそばへ行き、手を引っ張って安全な方へ引き寄せてあげる。これがてびきなのです。例えばみちをせとは、道を教えるという意味で、こっちに行ったら病院で、こっちに行ったら市役所だよというように行先の道を教えて下さることです。2つ目は残念です。これは親神様が急いでおられるのかなというところでやらねばならないことを放っといているとき、ひょっとすると神様が残念に思っているのではということです。3つ目は立腹です。これは人間の腹が立つのとは違って、こういうことをいつまでやっていてもたすけ一条の為にはならないということで激しく人間の心の入れ替えを要求することです。4つ目はようむきです。ようむきとは親神様がこの者は一つ教会長に育ててやろうとか布教所長にしてやろうとこうお考えになったときに身上に知らせて下さることがあります。病気や悩みことをみせてもらった時はまず、ようむきじゃないか、どういう御用があるのかと考え一歩前進することが大切になります。
親神様の主だったてびきは今の4つになりますが、しかし現実に病気になったり、家庭や職場での人間関係に悩んだりして、ああ神様からお手入れを頂いて嬉しいという人はいないのです。病気になればこの先この病気は本当に治るのかとか、家庭や職場の不和になればそれこそ毎日が泥沼に首まで浸かってしまい、ただもがいているしかないという状態になりかねません。そしてただ目の前の苦しみや悩みに心を奪われるのみであり、人を怨み、天を呪って生きるしかない人もおられます。又、現実逃避をし、今生きている世界とは違う世界を求めたりしかねません。しかしそれではなんの解決にもならないし、事態が好転することもありません。そこで親神様は、真にたすかるための信仰の心構えを教えて下さいました。
逸話篇 一〇四「信心はな」のお話しの中で、
「神さんの信心はな、神さんを産んでくれた親と同んなじように思いなはれや。
そしたら、ほんまの信心が出来ますねで。」とおやさまがお話し下さったように、親神様・おやさまは自分を産んでくれた実の親なんだと思い、その親心を感じとらせて頂くことが大切なんだよと、信仰の心構えを教えて下さいました。天理教の神様は崇めたり崇拝したりする神様ではありません。どんな病気や悩みも神からの罰とか制裁ではないのです。罰や罪という言葉はおふでさきには一つものっていません。子供に不幸になってくれとか、犯罪者になってほしい親はいないのであります。あくまでも陽気ぐらしをさせたいとの、子供かわいい一条の上から、てびきをして幸せに暮らせるよう心の入れ替え、運命の切り替えを促しているのです。どんな病気や悩みもこのように受け取らせて頂き、こうして、てびきによって知らして下さるお陰で心が入れ替わってくるんだなあと、喜びを見つけていくことが結構な御守護を頂く第一条件になります。
おふでさきに
なににてもやまいいたみハさらになし 神のせきこみてびきなるそや (二―7)
とありますが「やまいいたみハさらになし」と仰っておられるように、体の患い以上にその根本にもっと深い親神様の親心がこもっているのです。
【おてびきと感じたら】
病気や悩みごとの困難を打開するには、これまでの自分自身の考えを捨て、今までの心をすっきり入れ替え、親神様の思いに沿いきる心を定めることが大切になります。その真実の心さえ定め、おやさまが何度も何度も仰られた、おつとめとおさづけを実行し誠の心にさえなれば、親神様はその心をすぐ受け取って下さり、必ずよい方よい方へと、はたらきを見せて下さいます。しかし親神様のてびきを頂き、一度は心を入れ替えても、人間の心の芯というものは、そう簡単に変わる事はできません。だからこそ我々人間の親である親神様・おやさまは繰り返し繰り返し、しるしをみせて少しでも、心の成人ができるように根気よく導いて下さるのです。ここで1つ気をつけなければならないのは、自分では親神様の思いに沿っていると思っていても、親神様の目から見れば間違っていることもあるということであります。人間はとにかく、日が経つと忘れてしいます。特に嬉しいこと有難いことは、すぐ忘れてしまいます。しかし苦しい事やしんどいことは何年でも覚えています。
教祖の時代にいた先人の先生達も、1回のてびきでスパッと信仰をする人もいれば、2回でも3回でもてびきを頂いてだんだん熱心になった人もいます。1回でスパッと心の切り替えができるのが一番よいのですが、2回でも3回でも心の切り替えができれば、切り替えたことに変わりないので、まずは心を切り替える、そうすると運命の立て替えへと繋がってくるのです。命の掛かってくる病気であれば、真剣に心の立て替えをするでしょうし、ちょっとした病気でも、何度も何度も同じ病気を頂けばこれはこのままにしておけばまずいということで心の立て替えをします。とにかく心が親神様のお喜び下さる心になったらよいのです。
我々用木は親神様の御導きの下に陽気ぐらしを目指して、心が成長するように毎日生活をしています。だからこそ信仰していても病気や悩みなどを見せられることは必ずといってよいほどあります。むしろ信仰しているからこそ、何もわからない人より、分かっている人の分、厳しいことを見せて下さることもあります。この教えを知らない人は、病気や悩みを頂いても、ただだた病気になった、しんどい、悩みがもつれて苦しくて苦しくて毎日が辛いとしかなりませんが、おやさまより教えて下さったこの道を知る我々は、ああこれが本当の陽気ぐらしにお導き下さるおてびきだと、今までの心の置き所がちょっと狂っていたんだという事に気づかせて頂けます。そしてどんな病気や悩みごとの中にも親神様は必ず大難を小難に、小難を無難に守って下さっていますのでそこに親心を感じ、喜びを見つけ出し心を入れ替え、親神様の親心を頂ける真実の心になり、不思議な自由自在の働きを見せて頂いたなら、夜が明けたような明るい陽気ぐらしの世界が始まってきます。我々は陽気ぐらしを目指しています。親神様は神様である前に、親であります。おやさまは常に我々を心配し手救けをして下さる親であります。一日一日を両親である親神様・おやさまに喜んでもらえるような生活を心がけ、我々用木の親である真柱様に喜んで頂けるよう、8月29日創立110周年記念祭で頂いたお言葉の中にある、「網走大教会の歩みは、これからも続いていかなければなりません。それがどう続いていくのかは、皆さん方のこれまでの道すがらに対する反省と、今後の歩み方に対する心定めにかかっていると言っても過言ではないと思います。」とのお言葉を実行させて頂き、来たるおやさま140年祭の三年千日に備え新たなスタートをさせて頂きましょう。
そして親心に反する心使いを具体的に上げますと、1つ目は心得違いであります。これは人間の心が親神様の心にそっていない反対の方向を向いていることで、おふでさきやみかぐらうたには「心違い、心得違い」と教えて下さり、心得違いから身上を頂くこともあります。2つ目はいづむばかりの心使いであります。これは何を見ても聞いてもうっとうしくてどうにもならないという心使いです。3つ目は、我さえよくばという心使いです。これは現在地球の人口は79億人いますが、その79億分の1という本当に狭い心の使い方になります。最後は疑う心です。これは親神様の自由自在の不思議なたすけというのは、わかってはいるが、病や悩みが長引くとどうしても自分はここまでやっているのに神様はいつ救けて下さるのだろうだとか、どんどん病が進行してしまう、どんどん悩みが泥沼化していく、こうなりますとどうしてもこの度の病気はもうたすからないのではないか、この悩みは生涯なくならないのではないかという疑いの心になってしまいます。そのようなフラフラした心になった時こそ、まだ誠真実が神様の思いには到達していないだけなんだと、更にもう一つ心定めをし、おやさまのひながたを実践させてもらえば、必ず救けて下さると心を立て替えることが肝心になります。やはり大切なのは神にもたれる心です。 神様は必ず救けて下さると堅く信じて、絶対に疑わない心。どんなに難しい病気や辛い悩みでも、どれだけ長くかかろうとも、どうにもならない事柄が起こっても絶対に疑わない。必ず親神様が救けて下さると自分の真実を定める心。そして定めた心を必ず実行させてもらう、そうすると真実の心を受け取って下さり、たすかりの第一歩が踏み出されます。一つ実行すれば必ず糸口が開けてきます。欲や高慢の心があると心が二筋三筋というふうになってくるので、近道をしようと思ったら、欲や高慢の心を捨て、親神様の心に沿うというひとすじの心になることが肝心なのです。