世話人先生ご講話 抜粋(立教187年12月号)
♦秋季大祭の意義♦
秋季大祭は立教の元一日に思いを馳せてつとめさせて頂いているのであります。
この教えが始まるその時に、教祖のお口を通じて仰せられた親神様のお言葉の中には『このたび、世界一れつをたすけるために天降った』という一節もあれば、また『神の言う事承知せよ、聞き入れくれた事ならば世界一列救けさそ』という一節もあり、親神様の世界一れつの人々をたすけたいが為にこの教えを説き始めるんだという、強い思召を伺うことができるように思っています。
親神様は世界たすけのこの道を始めるため、教祖を月日のやしろとお定めになりました。おふでさきに、
いまなるの月日のをもう事なるわ くちわにんけん心月日や (十二―67)
しかときけくちハ月日がみなかりて 心ハ月日みなかしている (十二―68)
とお教え頂きます。
これは教祖のお姿というものは普通人間の姿と何ら変わりはないけれども、そのお心は親神様のお心そのものなんだ。親神様は教祖のお口を通してその思召を教えて下さっているんだということを明らかにお示し下さっているのだと思っています。
教祖のお言葉は親神様のお言葉。教祖のお心は親神様のお心。これを信じることが大事であります。教祖は
いちれつにはやくたすけをいそぐから せかいの心いさめかゝりて (一―8)
このはなし一寸の事やとをもうなよ せかい一れつたすけたいから (四―126)
どのよふなくどきはなしをするのもな たすけたいとの一ぢよばかりで (七―26)
とお示し下さいますように、先程も申しましたけれども、何とかして世界中の人間をたすけてやりたい、との御心で私たちにこの教えをお説き下されたのであります。
では、なぜ世界中をたすけたいのでしょうか。私はそれは親神様と我々人間との間柄が親と子、親子だからだと思っています。親神様のもとに等しく子供である全ての人々。つまり親神様から見れば、我が子皆をたすけてやりたいという親心が、この教えには込められているんだと言っていいと私は思っています。
せかいぢう神のたあにハみなわがこ 一れつハみなをやとをもゑよ (四―79)
このはなしとこの事ともゆハんでな せかいちううハみなわがこやで (十五―68)
とおふでさきでお教え下さっています。
親神様と私たち人間との間柄は親と子であります。親神様は自分のことを親と思ってくれ、お前たちは皆私の子供なんだと仰せ下さっている、そう感じます。
逸話篇104の「信心はな」というお話の中では教祖が「神さんの信心はな、神さんを、産んでくれた親と同んなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心が出来ますで。」と仰せられたと記されています。
人間でも親というものは我が子のことを思ってあれこれと口を出すのでありますが、子供からすればそれを時にはうるさく思い、なかなか親の気持ちを分かってはくれないのであります。
孝行のしたい時分に親はなし。ということわざもありますが、それこそ年齢を重ね親と離れて様々な経験を経て、ようやく親の気持ちというものが、またその有難みが分かってくるような気がいたします。
私たちがこの道を通るにあたって親神様を、そして教祖を自分を産み育ててくれた親と同じように思ったときに、それぞれの信仰、信心というものが一段と進んでいくということを教えて下さっていると思います。
♦順序の大切さ♦
明治二十年八月二十三日のおさしづに、
「立毛の育つも、この世始めも同じ事、無い人間を拵えて、初めより、ものが言えたやない。一年経てば一つ分かる。又一つ分かれば、又一つ分かるように成って、もの言うように成りたも同じ事。順序事情の道を伝うて、何事も一つく分かる。」
とお示し下さっています。
親神様はこの世の元初まりにあたって、何にもない泥海の中から我々人間を拵えて下さったのでありますが、人間は最初から今と同じ大きさではありませんでした。
親神様は何にもない紋型ないところからこの世人間をお始め下されたばかりではなく、九億九万年は水中の住居、六千年は知恵の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みとありますように、長い年月限りのない親心をもって、成人の守護を下され、時に応じて旬々の仕込みをなされて、人間を今のような姿にまで育て導いて下さったのであります。
元の理のお話の中で三尺に成人した時にものを言い始め云々とありますように、最初から人間はものを言えたわけではありません。段々段々と親神様のお導きを頂戴して成人していく中で、初めて言葉を話すことができるようになったのであり、そこに至るまでには様々な順序を踏んで、少しずつ少しずつ育っていったのであります。だからこそおふでさきの中で、
月日よりたんく心つくしきり そのゆへなるのにんけんである (六―88)
と教えて下さっているのだと思います。
私は物事が成ってくるには必ず順序というものが存在し、物事が成るためには必ずある程度の時間がかかるものだと思っています。
教祖が人々に教えを説いて導かれた、いわゆるひながたの道中にも順序というものがあったのではないかと考えています。何も知らない、分からない人たちに、分かってもらうために、この道を通ってもらうために、教祖は順序を整え、道をつけて下さったんだと思っています。
親として何も知らない子供に物事を教え、身に付け、理解させていくのと同じように、教祖はひながたの親として、物事の順序を踏まえた、深く熱い親心による心配りをなさって下さったと思っているのです。
例えば、大切なおつとめ、これも立教後すぐに教えて下さったわけではありません。大事だからまず最初に教える、ということではなかったのではないかと思うんです。
教祖は、慶応二年から十年の年月をかけて人々におつとめを教えて下さったのであります。今の私たちは、これほどの時間をかけて人におつとめを教えるということはあまりないように思います。
十二下りのおつとめを全て教える、おてふりを覚えてもらうまでに時間がかかる、時間を要するということはあるかもしれませんが、あしきをはろうての歌や手振りは、それこそにをいがかかればすぐにでも学んでほしい、身に付けてもらいたいと思って教えるのではないでしょうか。
教祖のひながたから考えれば、我々はまだまだせっかちなのかもしれません。教祖は何も分からない、何も知らない人々に、いきなりおつとめを教えるということはなさらなかったのであります。
御自ら貧に落ち切る道を通り、誰も寄り付かない時を過ごしながら、おつとめを教えたら分かってくれるような人が寄ってくるまでだんだんと下地を整え、人が寄ってくるようになってからも、人々がおつとめを受け止めてくれるまで、時間をかけて人々を丹精し、頃合いを見計らっておつとめを教え始められたのではないでしょうか。
こうしたことはおつとめだけではないと思います。教祖はこの教えが分かるように人々を育て導き、分かるように言葉や態度を駆使して教えを説かれました。
私たちも人様にこの教えを伝えるにあたって、またあとに続く人たちを丹精するにあたって、どうした順序で、どのようにして時を使い、どのような言葉を用いればいいのか、よくよく考えながらつとめさせて頂きたいと思うのであります。
♦親の心♦
さて、人間がまだまだ何も分からない小さな子どもを育てるということに思いを致した時、私はもう一つ大事なことがあると思っています。
それは、いけないことはいけない、ダメなことはダメとしっかりと教えるということであります。
子どもが小さければ小さいほど親はあれこれと注意をして、危ないことのないように、間違ったことを覚えてしまわないように、気を配りながら子育てをするのだと思います。
何でも子どもの思いのままに、何の注意をすることもなく子供を育てあげるということは不可能に近いと思います。注意をすることも間違いを正すことも、すべて子どもを思う親心ゆえのことだと感じるのであります。
教祖はいつもお優しいというイメージがありますが、私はその優しさというものは注意をなされないというような優しさではなく、常に子どもである私たちのことを先々まで考え、時には厳しく、時には優しく、温かく大らかな心で守り導いて下さる、そんな優しさだと思っているのであります。
教祖はここという時には、なあなあで済ますのではなく、どうでも必要な考え方や心構えをはっきりと述べて下さったと思っています。
成ってくることを素直に受け止め、親神様の思召を求めて、そのお働きに感謝して通るのだということを、時に応じて旬を逃すことなく伝えようとなされたのではないでしょうか。
厳しいことを見せるのも、注意をするのも、それが相手を育てるために必要だからでありましょう。そしてそうしたことは、相手の人が注意をしたら分かってくれる、厳しいことを言っても見せても受け止めてくれる、大丈夫だ、という時にそれをすることが大切だと思います。そこを間違えると失敗してしまうのだと思います。
親神様は乗り越えられない人には、決して乗り越えられない節はお見せにならないと思います。少し頑張ったらこの人なら乗り越えられること、少し工夫をすればこの人なら通り切ってくれることを見せて下さっているんだと思うんです。
私たちが毎日毎日暮らしていく中には、必ず喜べないことが現れてまいります。楽しいことや嬉しいことばかりというような、自分が望むことばかりが現われてくる、そんな毎日はまずありえないと思います。
毎日の暮らしの中には、喜べないこと、苦しいこと、辛いこと、面倒くさいこと、そんなことがいっぱいであります。それらすべてを喜んで通れと言われても、それは難しいことでしょう。
しかし、その中の一つでも二つでも喜べれば、あるいは、これもまた結構なんだと受け止めて通ることができれば、喜べないことが減って、喜べることが増えるわけでありますから、それまでとは随分違った毎日になるのではないでしょうか。
私はそのための大切な考え方の一つが、しんどいことも苦しいことも、親神様が私のためを思って見せて下さっているんだ、自分の親が我が子を育て導くために見せて下さっているのと同じだというように、親の心に思いを致すということだと考えているのであります。
たんくとこのみちすじのよふたいハ みなハが事とをもてしやんせ (十―104)
とお示し下さっています。
私たちの身に、また身の回りに見えること聞こえることは、すべて自分に向けて親神様が見せて下さっているんだ、聞かせて下さっているんだと受け止めて、そこに込められた親心、思召を思案することが大切です。
明治三十五年七月十三日のおさしづに、
この道の掛かりは、先ず一代という、どうでもこうでも不自由難儀の道通らにゃならん。不自由の道通るは天然自然の道という。神の望む処である。
とお示し下さっています。
教祖は私たち人間の目から見れば、苦しいことだらけの道を、喜べないことばかりの道をご自身が通って道をつけて下さいました。
不安の中でも大丈夫、不自由な中でも大丈夫なんだと、後に続く私たちのために、自らそうした中を通って下さっていた、それがひながたの道なんだと思いますと、何か非常に力強く感じられるのであります。
ですから私たちが、難儀不自由な中を通ることになっても、不安の中を通ることになっても、必要以上の心配はいらないと思います。そうした道を教祖が先頭切って通って下さったのであります。それは、まさに自分が今、ひながたの道を辿らせて頂いているんだ、そう悟らせてもらえればいいのであって、なんら不自由だ、不安だと不足に感じなくてもいいんだ、そう、私は悟らせてもらいたいと思っているのであります。
♦年祭に向かって♦
教祖百四十年祭が近づいてまいりました。教祖の年祭は成人の旬だと聞かせて頂きます。しかし年祭は成人の旬だからと言って、年祭が近づく今、何もせずにじっとしてるだけでは成人はできません。
私たちが成人の旬に成人するためには何をすればいいのでしょうか。私は今、それははっきりしていると思っています。
諭達四号に「御存命でお働き下さる教祖にご安心頂き、お喜び頂きたい」と記して下さっているではありませんか。それをさせて頂いたらいいのだと思います。
今それぞれが置かれている状況の中で、教祖にお喜び頂けることは何か、ご安心頂けることは何か、これをしっかり考えて実行に移していこうではありませんか。考えて何か感じて終わりではなく、それを身に行ってこそ意味があるのだと思います。
教祖の年祭に向かって、大教会で目標を立て、それぞれの教会ではその目標をもとに自分たちで目標を定めて歩みを進めてこられたことだと思います。まっすぐに一生懸命通っているつもりでも、知らず知らずのうちにズレが生じてくることもあるでしょう。
年祭の日まであと一年少々というこの時に、今一度大きな目標を見つめ直し、それぞれの教会の歩み、また、一人ひとりの歩みを振り返ってみて頂きたいと思います。
その上で、もしそこに修正するべき点があるのならそこを改めて、また、緩んでいた所があるなと思えば、そこを締め直して、最後の一年への歩みに生かして頂きたいと思います。
それともう一点お願いを申したいのは、何よりも教祖のひながたを辿らせてもらうんだという気持ちを、お互いに強く持って歩ませて頂きたいということであります。もちろん人様に喜んでもらえるよう、人様の力になれるよう一生懸命に動くことは大切であります。
しかし、私は教祖のお通り下されたひながたの道は、たすけ一条の道であるのと同時に、神一条の道であると言ってもいいと思っています。たすけることばかりに目がいって、神様を思う心、神一条になるという心をうっかり忘れてしまっては何か申し訳なく思います。
ひながたの道をひながた通りに歩むためにも、神一条の心で通ることができるようにお互い努力をさせて頂きたいのであります。神一条の心に近づくことができれば、そんな努力を重ねていけば、私は自然と人をたすける心、親神様、教祖に喜んで頂けるおたすけ心が生まれてくると信じているのであります。
何事も、物事を進めるにあたっては順序があるということを忘れず、自分のことも人様のことも、その順序を飛ばすことなく、必要な時間や必要な手間を惜しむことなく、コツコツで良いのですから、結果を求めすぎるがあまり、焦ってしまうことのないように通らせて頂きたいと思います。
親神様の親心、そして教祖のひながたをただひたすら求め見つめて、一歩一歩、歩みを進めて通るなら、必ず年祭の日になるほどと思える、そう導いて頂けると信じます。
真柱様は十月二十六日の大祭におきまして、三年千日の期間は動かせて頂くことが大切なんだ、一生懸命取り組んで年祭の当日、その日を嬉しい心で迎えることができるように、まだ三分の一残っている三年千日を勇み心を奮い起こして通ってもらいたい、という意味のお話をして下さいました。
どうかあと一年余り、教祖百四十年祭のその日に教祖に喜んで頂けるように、安心して頂けるようにお互いしっかりと歩ませて頂きましょう。