世話人先生ご講話 抜粋(立教186年7月号)

♦教祖の年祭とは♦
真柱様は、諭達第四号の冒頭に「教祖百四十年祭を迎えるにあたり、思うところを述べて、全教の心を一つにしたい。」と記して下さいました。教祖の年祭に向かうにあたって全教、即ちこのお道に繫がる皆の心を一つにしたい、心一つに年祭に向かって歩みを進めたいということでありましょう。ではなぜ教祖の年祭に向かうにあたっては、皆の心を一つにしなければならないのか、ということを考えてみたいと思います。
私は教祖の年祭は我々皆の親の年祭だと考えています。教祖は私たちの親であります。教祖は親神様が人間をお創り下さった時に、母親の役割をつとめられた魂をお持ちのお方であります。そして人間の元の親・実の親であらせられる親神様が入り込まれた、月日のやしろたるお方であります。親神様の子供である私たちが、陽気ぐらしへの道を誤らずにたどることが出来るように、自ら五十年にわたって道を歩んで下さったひながたの親が教祖であり、お姿をお隠しになられてからも、存命のまま私たちを導いて下さっているのです。
教祖の年祭は、人間が故人を偲ぶためにつとめる年祭とは意味合いが異なります。教祖は今もなお、存命でお働き下されています。ですから亡くなられた方、故人を偲ぶのとは明らかに違いがあると言ってもよいでしょう。
私は、教祖の年祭を教祖にお育て頂くお互いが、我が事としてつとめることが大切だと思っています。教祖と私たちとの関係は親と子と言ってもよいでしょう。自分の事をいつも気にかけて下さっている親の年祭なのですから、教祖に一生懸命毎日を過ごしている自分の姿を見てもらいたい、成人した姿を見てもらいたい、そして喜んで頂きたい、安心して頂きたい、そうした気持ちでその日まで通らせてもらいたいものであります。皆がこうした心で通ることが大切なのだと、今この時旬における私たちの思案と行動の指針を、諭達を通して教えて下さったと思っているのであります。

♦ひながたの道を通るということ♦
諭達にも引用されておりますが、明治二十二年十一月七日のおさしづの中で「ひながたの道を通らねばひながた要らん。(略)ひながたの道より道が無いで。」とお教え下さっています。教祖のお通り下された五十年のひながたは陽気ぐらしへ向かって歩む手本、親神様の御教えを御教え通りに歩むための手本だということが出来るのではないでしょうか。口で説いただけではなかなかこの道を歩もうとしない私たち人間に、何とかたすかる道を教えようと、身をもって手本の道をお示し下されたのです。
私たちが親神様の御教えを信じ、陽気ぐらしへの道を歩むためには、教祖がお付け下された手本の道、いわゆるひながたの道を通るより他に方法はありません。しかし教祖はご自身と同じように、私たちにも五十年通らねばならんのだとは仰せになっておられないのであります。今引用しました同じおさしづの中で、わずか三年千日ひながた通りの道を通ればよいのだ。そうすれば落ちようと思っても落ちられないようになるんだ、という意味のことをお示し下さっているのであります。細い道を通るからこそ、大きな道に出ることが出来るんだということを心に治め、三年千日私たちが一手一つに通ることが大切なのであります。
ひながたの道を三年間たどり続けることは容易なことではないかもしれません。しかしこれまで通って来て下さった先人がおられるわけですから、私たちにも出来ないことはないのであります。この時旬にひながたの道をしっかりたどらせてもらえば、先々必ず結構にお導き下さるということを信じて、勇気を持って根気よく歩ませて頂きたいのであります。
この道は教祖お一人から始まりました。親神様のご存在も、その御教えも、世の中の誰一人として知らないところから、教祖はこの道をお付け下さったのであります。すべては子供である私たちをたすけたい、子供可愛い一条の親心からであります。教祖がおられなければ今の私たちはありません。又、教祖におたすけ頂いた先人先輩たちが教祖を慕い、ひながたを手本としてこの道を歩んで下さったからこそ、今があるのです。こうしたことを決して忘れることのないように、教祖の親心と御恩に思いを馳せて、私たち一人ひとりが教祖のひながたを、これが私の通る道なんだと心に治め直して歩むということが大切だと思えてなりません。
真柱様は立教百六十二年の秋季大祭で「ひながたの道は、私たち道を通る者のためにあるのであります。とかく、形の面だけに目を奪われますが、ひながたの奥にある、一れつ子供救けたい親心をしっかりと見つめ、そして自分自身に、いささかなりと教祖のお心を体して通っているだろうかと、折に触れて問い返して頂きたいのであります。」とお話を下さったことがあります。
たとえ時代が変わっても、教祖が教えて下さった親神様の御教えは、決して変わることがありません。変わることのない教え、そして教祖の親心、これをお通り下されたひながたの道に求め、今を生きる自分の思案や行動に反映して通っていくということが、ひながたをたどる態度であると思うのであります。
諭達の中では、教祖がまず貧に落ち切るところからひながたの道を始められ、どんな困難な道中も親神様のお心のままに、心明るく通られたことが述べられています。ひながたの道の最初、陽気ぐらしへ歩む手本の道の最初に、貧に落ち切られたという事は何を意味するのでありましょうか。私は陽気ぐらしへの道を真っ直ぐに歩むには、世間の常識ではなく親神様の思召を自分の常識とすることが大切なんだ、だからまず己のこだわり、執着を捨て去ることがその第一歩となるんだということを教えて下さっているように思うのであります。
貧に落ち切るということによって、それまでのものの考え方を捨て去り、どんな中でも喜ぶことが出来る、親神様のお望み下さるものの見方や考え方が身に付きやすい環境を整えることを教えて下さったのではないでしょうか。
次に、水を飲めば水の味がするというお言葉を用いられ、親神様の大いなるご守護に感謝して通ることを教えられていると述べて下さっています。私たちは親神様のご守護が無ければ生きていくことは出来ません。親神様からお借りしているこの身体に下さる様々なお働きは勿論のこと、自然の様々な恵み無しには私たちの命は成り立たないのであります。こうした親神様のお働きやお恵みは、私たちが欲しい時だけに下さるのではないのです。少しの絶え間も無く頂戴することが出来る、又、必要な時に必要なものを頂戴することが出来る、そうした親神様の大きな大きなご守護のお蔭で、私たちの毎日はあるのです。
そして諭達では次に、ふしから芽が出る、というお言葉を用いられています。成ってくる姿はすべて人々を成人へとお導き下さる親神様のお計らいであると述べられているのです。明治二十年、教祖がお姿を隠されるという大きなふしには、当時の人々の心の成人を急き込まれるという思召があったとお聞かせ頂きます。当時の人たちは、おさしづを伺い、そして談じ合い、そうした思召に気が付いたからこそ、その後、道が大きく伸びるというご守護を頂戴なされたのではないでしょうか。
私たちはよく、成ってくるのが天の理と聞かせて頂きます。また、見るもいんねん、聞くもいんねんとも聞かせて頂きます。親神様は私たちを成人させるために、必要なことを、毎日の嬉しいこと、悲しいこと、苦しいことなど、様々な形でお見せ下さるんだと思うんです。親神様が私たちのために、自分に向けて見せて下さっていることでありますから、目を背けることなくしっかりと向き合って、そこに込められた親心を探し求めて、喜ぶことができるよう、前を向くことができるよう、思案して通ることが大切だと悟らせてもらうのであります。
ふしから芽が出ることもあれば、ふしで折れてしまうこともあります。ふしから芽が出るご守護を頂戴するためには、成ってくることには、すべて親神様の親心が込められているんだと、素直に受け止めて通ることが大切だと、ひながたを通して教えて下さっていると思うのであります。
そして次には、人救けたら我が身救かる、というお言葉が出てまいります。この教えを信じるお互いは、親神様、教祖の世界中の人間をたすけたいとの思召、たすけ一条のお働きの手足となってつとめさせて頂く役目をお与え頂いているのだと思います。
しかし、思い違いをしてはいけないのは、たすけて下さるのはどこまでも、親神様、教祖であって、私たちがたすけるのではないということであります。私たちのなすべきことは、身上や事情で悩み苦しむ人を何とかたすけて頂きたいと、親神様、教祖に願うことであります。
又、相手の方に親神様、教祖のお話を伝えることであります。そして、何とかご守護を頂くために、不思議なお働きを頂戴するために真実を尽くしていくということであります。
私たち人間は決して、親神様、教祖と横並びの、たすける側にはなれません。どこまでも、たすけて下さるのは神様であります。人間はたすけられる側だと思います。ただ、そのたすけられる側の人間の中で、人より先に、親神様、教祖のお話を聞かせて頂いて、たすけ一条のお手伝いをさせて頂くことが出来るのが私たちなのであります。
人救けたら我が身救かる、このお言葉は、私たちの役割は人様をたすけさせて頂くことだと教えて下さっているのと同時に、たすかりたいと思ったら、人様をたすけさせてもらいなさい、この教えを実行しなさい、そうしたら成るように成っていきますよ、と教えて下さっている気がしてなりません。
自分がたすかりたいからこそ教えに素直になるんだ、たすけてもらいたいからこそ人様にたすかってもらうようにつとめさせてもらうんだ。そこから始めさせてもらえればいいのではないかと考えているのであります。
水を飲めば水の味がする、ふしから芽が出る、人救けたら我が身救かる。こうしたお言葉を通して、親神様のご守護をご守護と感じて、毎日を過ごす。毎日出会うことには、すべて親神様の親心が込められている。御教えを素直に実行することで不思議なお働きを頂戴することが出来る、ということを学ばせてもらえると思っています。
親神様のお働きを頂戴してこその私たちの毎日なのですから、その毎日に成ってくることをしっかりと受け止めて、そこに込めて下さる親心を思案して、教えを教え通りに素直に通ることが大切なのだということを、五十年のひながたを通して教えて下さっていると思うのです。

♦御用をつとめる♦
私は本部で御用をつとめさせて頂いているのでありますが、教会でも教会長という立場でつとめさせて頂いているのであります。両方の立場がありますが、身体はご覧のように一つしかありませんので、それぞれを十分につとめているとはとても言えません。どちらに対しても、申し訳ないなあと思うことが多々ございます。
そんな中でよく思いますことは、おぢばの御用をちゃんとつとめることが教会の御用に繋がり、また、教会の御用を一生懸命つとめることが、おぢばの御用にも活きてくるということであります。
教会の会長としては教会の御用を手伝ってくれる人、教会に足を運んでくれる人、そうした人が一人でも増えたらありがたいなということをいつも思っています。そのために、しっかりと丹精しないといけない、にをいがけしないといけないとも思うのですが、なかなか思うように時間が取れません。
私は、教会に足を運ぶ、教会の御用をつとめてくれる、そうした人をお与え頂くためには、まず自分が足を運ばねばならないところに足を運び、そこの御用をちゃんとさせてもらうということが大切だと考えています。そしてそれと共に、出来る限り本部の御用があるから信者さんのことができない、ということを言わなくてもいいように、何とかやりくりをしてつとめているのであります。
この道を通る上で与えられる御用は、親神様、教祖が私のすべてを見極めた上で、下さっているんだと思っています。本部と教会と両方のことをすることが、お前のためだと、御用を与えて下さっているのでありましょう。ですからそこに不足をすることがないように、また、何とか両方が立っていくようにつとめさせて頂きたいなと思っているのです。

♦次代の丹精♦
こうして今の時代を共に通る人を丹精する努力も大切でありますが、次の時代を担う人を丹精する、導くということも忘れてはならないことだと思います。次の時代を担う人は、そのまた次の時代を通る人を育てる人でもあるのです。道は続くからこそ道なのです。途中で途切れれば、道が道でなくなってしまいます。道は通る人があるからこそ、道であり続けられるのだと思います。いくら一時はきれいな道になっていても、人が通らなくなって、誰も手入れをしなくなれば、そこにはいつの間にか草が茂り、荒れ果ててどこが道やら分からなくなってしまいます。
教祖がお付け下されたこの道も、陽気ぐらしに向かって道が道であり続けることができるように、しっかり手入れを続けていくことが必要です。そのためには、自分が通るそのあとに、何とか道を通る人を育て導いていくことが欠かせません。一時は細くなったって、上り下りが激しくなったって、右や左に曲がりくねっていたって、陽気ぐらしという目的地に向かって道を通る人が続いてさえいれば、私は道が道であり続けられると思っています。
陽気ぐらしへ向かうこの道は、一代や二代、百年や二百年では決して目的地に到達することができない道なんだと思います。末代かけて通らねばならない道なのだと思います。教祖がお付け下さったこの道が、陽気ぐらしへ向かうこの道が、目的地に達する前に、途切れてしまうことのないように、次の代、また次の代へと着実に引き継がれていくように、お互い心を合わせてつとめることが大切だと思います。
教祖の教えを、教え通りに繋いでいくということが大事なのでありますから、心の向きに十分注意をして、道を末代へ繋ぐ努力をさせてもらいたいのであります。

♦成人の旬♦
教祖の年祭は成人の旬と教えて頂きます。成人の旬とは、成人出来る時、成人しやすい時といってもいいでしょう。
では、三年千日になれば、何も特別なことをしなくても、今まで通りに過ごさせてもらったら成人出来るのでありましょうか。そうではないということは、お分かり頂けると思います。成人するには、成人するための努力が必要なのです。私たちが成人するための努力とは、年祭への三年千日、しっかりとひながたの道を歩ませてもらう努力をすることであります。誰のためでもありません。自分が成人するための、自分がたすけて頂くための努力であります。
教祖の年祭の元は、子供である私たちの一層の成人を促された、というところにあることに改めて思いを致し、自分が成人の努力をすることが、何より教祖にご安心頂くことになるんだ、お喜び頂くことになるんだということを、我が心に治めさせて頂きましょう。そのためには、三年千日、ひながたをたどるということを意識して、何をさせてもらったらいいのか、今の自分には何ができるのか、ということを考えて、これをさせてもらおう、と心を定めて通ることが大切だと思います。
三年千日、三年千日と口で言いながら、これまでと変わらぬ毎日を通れば、結局は何もしていないのと同じことになってしまいかねません。
成人の旬に、成人させて頂くことができるように、この三年はどうでも通り切らせて頂こうと、普段とは時も心も仕切ってつとめさせて頂きたいと思うのであります。そして通らせて頂く毎日の中で出会う、どんなことに対しても、教祖の教えによれば、こう考えればいいんだ、親神様の思召によれば、こう悟らせてもらったらいいんだ、そういう姿勢、いわゆる神一条の心で毎日を通ることが大切だと思っています。
そうした努力が出来れば、きっと教祖はそうや、そうや、それでいいんやとほほ笑んで下さるに違いがありません。こうした姿勢を身に付けることが出来るように通るということが、ひながたをたどる努力だということではないかと思っているのであります。
教祖のお陰で今日という日があるんだ、教祖の年祭は私たちの親の年祭だ、だから自分の成人した姿を、自分の成人する努力を教祖にご覧頂きたい、そして少しでも喜んで頂きたい、安心して頂きたい。そうした同じような心を持って、教祖百四十年祭に向かっての歩みを進めさせて頂きたいのであります。そのことが将来のこの道の伸展となり、そして何より、陽気ぐらしに向かっての着実な一歩に繋がっていくのだと信じてやみません。